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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 8—L・F・ヴェリッシモ『ジャパン・スケッチ』—過去と未来、同時進行する国=中田みちよ=第1回=20年前の日本を〃探検〃

ニッケイ新聞 2013年6月14日

 これはルイス・フェルナンド・ヴェリッシモ(Luis Fernando Verissimo、1936年〜)のコメント文にジョアキン・ダ・フォンセッカ(Joaquim da Fonseca)が挿絵を描く5冊目のスケッチブックです。日本の名所といわれる観光地のスケッチで、偶然にも日本語教師として基金の研修旅行で私が訪れたことがある名所と重なりましたから、大変わかりやすい本でした。
 『期間が2週間の2回(1992、94)の訪日である。2年の間隙がある。別に論文を書くつもりも、また、そんな野心ももっていない—その爪を見ただけでドラゴンを語るような愚かなことしまい—許された状況の中で得た、単なる印象記である。この2回の旅行はいずれも招待を受けたもので、1回目は「国際交流基金」という日本文化を外国に紹介する半官半民の機関からのものであり、2回目は日本の政府(観光振興協会)からのものである』
 ルイス・フェルナンドは、諧謔にみちた随筆や一口話や評論を書かせたら当代髄一といわれる人なので、このスケッチ・ブックにはそれこそアイロニーがたっぷり。導入部分を読んだだけで賢い人だなあと思わざるをえませんでした。外国を2週間旅行してもわかるものなど何もない…。だからご本人も日誌のような形で綴られている印象記だといっているわけで、賢明な方法だと思います。日本移民・日系社会史年表によればこの92年というのは、出稼ぎの増加に備えて名古屋直通便ができ、サンパウロ査証発行数6万1500件で、世界一になっていたころです。
 『日本の十分の一も見ていないし、もちろん、言葉だって、わずかばかりの既知の語彙の発音が多少正しくなったくらいであろう。道端で、交通手段の中で、あるいはホテルで、日本人と一緒になった。しかし、彼らが人生や世界をどう考えているかは、日本に行かなくても知っていた程度の知識しか得られなかった。東洋は以前のまま計り知れない存在である。もちろん、時間が足りなかったこともあるし、共通語を有していなかったことも大きい。けっきょく、人類が人類であるというだけで分かり合える程度の理解度というものであろう。しかも、それは間に戦争という阻止するものがない時にだけ有効なのである』
 ますます、賢い人だと思います。ちゃんとわきまえている。
 ルイス・フェルナンドが80年代に一時ニューヨークに滞在して、「ゼロ・オーラ」紙に随筆を送稿していたころ、ジョアキン・ダ・フォンセッカもニューヨークの北部にいて風景や街頭を「すばやく、正確に」スケッチしていたというのですが、もともとふたりは1967年から「広報」という雑誌の編集に関わっていた仲で、そのうち、この随筆にスケッチを加えて一冊の本にしようとなるわけです。
 フェルナンドによるとジョアキンは水彩画の大家なんだそうですが、版元が見つからないまま10年が過ぎたといいます。本となって陽の目を見るのは大変なんだ。「私ごときが本を出そうと思っても無理だよねえ」とページをめくっていくと、スポンサーが投資してくれてL&PM出版社から「ニューヨーク・スケッチ」が世に出たのが1991年というのが判明。その後シリーズとして「パリ・スケッチ(92)」、「ローマ・スケッチ(93)」、「アメリカ・スケッチ(94)」、「ジャパン・スケッチ(95)」となり、「マドリ・スケッチ(97)」が出て一応終息します。(つづく)