第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(26)

ニッケイ新聞 2013年6月19日

 こういうこともあった。ほぼ同時期、サントス─ジュキア線ペドロ・デ・トレード駅の前のバール(簡易飲食店)で、邦人4人が一杯やっていた。内一人が不用意に「ブラジルの船が沈んだ祝いをやろう」と口を滑らした。
 この会話を聞いていた人間がいて、後で警察に通報した。スパイの嫌疑をかけられ、話した当人は1年、他の3人は1カ月、サントスの警察署に勾留されてしまった。
 通報したのは、同じ日本人であった、という。

 証言

 以下は、憩の園で行われた老入園者の聞き取り調査の内の「戦時中の迫害」に関する部分である。聞き取りは1986年と2006〜2007年に行われた。対象者は80〜90代の男女、戦時中は20代、30代だった人々である。なお、憩の園側の希望で、名前は伏せる。
▼女性N「レジストロに住んでいました。随分、迫害されて死ぬか生きるかでしたよ。牛、豚、なんでも盗(と)って行ってしまう。外人が(非日系人が、の意味)農園を荒らしました。野菜も食べ頃になると、全部、とって行ってしまう。街に買い物に出れば、足を引っ掛けたり、石を投げつけたり。でも買い物には行かにゃならんし……。泣いても泣ききれなかったヨ。日本語で話をすれば、監獄(警察の留置場の意味)に入れられた。皆で寄り集まって、しまいには何もせずにいたネ。やけくそになって何もしなかったネ」
▼男性Tなにせ私の居たチエテ移住地は、日本人ばかりの集団地ですから、戦争中は警察の目がきびしかった。署長がひげ面の男で、日本語で話をしていると直ぐ警察へ引っ張って行って、少しでも怪しいと思ったら、サンパウロの方へ送ってしまう。
 私の友人で、日露戦争に従軍して金鵄勲章を貰った人が居りましたが、家宅捜索をされ、勲章やら日本語の本を持って行かれるやら、散々な目に遭いました。その様な被害を受けた人が沢山おりました。
 私も1938年に日本へ帰ったということで、警察から睨まれ、スパイじゃないかという嫌疑をかけられ、警兵つきで警察へ連行されました。営業していた店の方は、警察から半月ごとに…(略)…お金を貰いに(タカリに)来ました。
日本人でも、二世で、警察に密着したのがいて、あの人が怪しいとか、この人がこんなことしているとか、密告する者もいて、随分、同胞をいじめました」
▼女性F「戦争中はサンパウロに居ったよ、うちに刑事が六人も来たヨ。もう全部調べたの。日本語のものがあったら全部とられたヨ。でも私は丁度、学校を卒業していたから、日本語の本なんか無くてもよかったヨ。隣りのバアさんは、捕まえられたヨ、あんまりでしゃばるから」
▼女性I「勉強した人は(教養ある人は、の意)そんな失礼なことはせんけれど、カボクロ(ここでは、無教養な人間ていどの意)が『出て行け、お前の国に!』なんて言うの。それも子供が言うの」
 前記した様に、迫害による被害が邦人全体で、どのくらいあったかは判らないが、岸本は彼が逮捕された1943年3月の時点で、拘留だけで「一万件と目されている」と記している。ただ、数字の出所を示していない。(続く)