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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 8—L・F・ヴェリッシモ『ジャパン・スケッチ』—過去と未来、同時進行する国=中田みちよ=第5回=鎌倉の大仏の爪が醜聞?!

ニッケイ新聞 2013年6月20日

 フォンセッカの段落はこんな風です。
『今回の旅行で私が期待していたのは、日本の顔といわれる富士山あるいはフジヤマと、太平洋から上る朝日を拝むことであった。富士山は私にとって相変わらずバーチャル的である。滞在中、靄が立ち込めるなかをわずかに重厚なシルエットを見せてくれただけであった。
 さらに日の出に関しては、滞在中宿泊したホテルはいずれも窓が反対側にあり、不可能であった。それを埋め合わせるように、秋の午後、オレンジ色の太陽が西に沈んでいくのを見ることができた。この国が織りなす美の世界、優美な文化遺産を見ることができたのである』
 結局、フォンセッカは滞日中富士山を拝めませんでした。こんなとき、日本人は「ふだんの行いが悪いから」といいますよね。ふふふ。
『東京の郊外ともいえる鎌倉には大仏がある、大きさでは日本で2番目だそうだ。しかし、思いがけない事件が起こった。全ての新聞は鎌倉の大仏が冒涜されたと書きたてた。大仏の爪が染められていたのである。日本では公共の記念物がこんな風になるのは大変珍しく、スキャンダラスな事件として扱われていた。そのニュースを伝える人も恥ずかしそうで、私たちは考えさせられたものである』
 何を考えさせられたんだろうかと考えています。まず、大仏の爪が赤く染められたのはそれほどのスキャンダルだろうか。フェルナンドが考えたのは、それぽっちのことに大騒ぎするお国柄ではなかったでしょうか。もっとも、これは街中、落書きで視覚障害を起こしている我々固有の反応なのかもしれません。視覚(あるいはエチカ)が摩滅してしまっている…。『日本を出発するまでにはとうとう、大仏のマニュキア師は不明であった』
 真面目くさってお参りする年輩者に対する若者の、「ただのコンクリートの塊じゃないか」という揶揄のような気がしますけれどね。
 『相撲は他のものも含めた愚劣なものの中のひとつである。—臀部を放り出して男たちがつかみ合う。それもせいぜい2、3分。それに反比例して儀式の物々しさ—しかし、実物を見るとこの二つの愚劣さなど霧散する』
 実は私も相撲を醜悪そのもののスポーツだと思っていました。私は温泉にも入れない。他人様と一緒に裸で湯船で首まで浸かるのがたまらない。そんな自意識のつよい人間ですから、廻しだけで衆人環視の中で組み合うなんて醜悪といわずしてなんと言おう、と差別していたんです。
 ところがリベルダーデで素人相撲をみて、ひとつ悟ったことがありました。田舎で畑仕事を手伝っている身体強壮な若者たち。それはいいんですが、別に覚悟を決めて相撲をとるわけじゃなくて、「お前、身体が大きいからやれ」といわれたくらいでしょう。すると、羞恥心が先にたって、非常に醜い。裸を恥じていて、偉丈夫なのにすごく貧相でした。見ているほうが辛くなる。
 そのとき、国技館で見た相撲を思い出しました。あの裸には誇りがある。プロ意識が満ちて堂々としている。これで飯を食っているという意地がある。それからですね。相撲に対する認識が変わったのは。最近は力士の裸を美しいと感じています。ですから、フェルナンドも、
『この魅了される感覚は、ある意味、日本に対する憧憬でもある。儀式的な行為、その象徴化されたしぐさの一つ一つに秘められる重さ、伝統。—同時に誇張された崇拝度。全てが日本的なのである。それがケッタイ(奇妙)であればあるほど、西洋人には崇高に見える。
 さらに興味深いのは、そんな(伝統を重んじる)相撲界が外国嫌いではないということである。ハワイからの力士、アメリカ大陸からの力士、ブラジルからの力士もいるのだ。それに、こんな娯楽と儀式が交じり合うスポーツが他の国にはあるだろうか。ちょっと、考えられない』(つづく)



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