ブラジル文学に登場する日系人像を探る 8—L・F・ヴェリッシモ『ジャパン・スケッチ』—過去と未来、同時進行する国=中田みちよ=第6回=靴脱ぐように伝統と先端技術を使い分ける

ニッケイ新聞 2013年6月21日

 この外国人力士についてですが、最近では東欧出身の力士もいて、国際色豊かですね。ブラジル出身力士は67年の龍錦を緒に、11人が在籍、最近ではアマゾンからも力士が出ていますよね。大相撲実況は衛星放送でサンパウロでも放映されるので、わが亭主どの、一喜一憂しながら観戦。大声で叫ぶので安眠妨害ではありますけどね。
 フェルナンドは勉強したと見えて、相撲についていろいろ解説しています。外国人のために書かれた情報誌から、できる範囲内で集めたと断っていますが、大変簡潔で解りやすい。さて、ジョアキンの悩みのタネは食事でした。
『到着してからジョアキンは私たちの和食好みに付き合おうとチャレンジしてくれるのだが、どうも、魚料理や華麗に飾り付けられているもの…例えば貝の中の、そのまた中の人工的に創られた花びら…何を食べさせられているか、さっぱり解らないということなのだろう。この旅行中たしなみから、ステーキを注文したい気持ちと戦いつづけていることがわかっていた。ジョアキンは緩和策として「そば」か「うどん」を頼む。いずれも熱々の大どんぶりのスパゲテイーのスープである。これが生の魚から逃げる食事』
 時代錯誤に陥るような奈良で、ジョアキンは肉に対面します。石焼肉とでもいうんでしょうか。
 『710年から784年にかけて奈良は日本の首都だった。栄華を誇った当時の宮廷も寺院も消えてしまったが、しかし、街は今でも歴史遺産である。その夜、旅館の夕食の席で、目の前に置かれた石が、持ち上げてミミズを探すものではなく、石を熱して薄切りの肉を焼くものだと聞いて、ジョアキンは喜んだ。やっと、肉にありつけた!』
 『仏教と神教のチガイは難しい。神道というのは宗教ではない。ドグマがない。古来から自然や人間が有する精神的なもの。それを日本人は〃神〃とよぶ。仏教は宗教で、インドに起源をもつ哲学で、朝鮮をとおって6世紀ごろ日本に渡来した。両者は排斥しあうわけではない。日本人の多くは誕生と結婚式は神道で行い、葬式は仏教で行う』
 日系社会も、最近までは葬式・法要は仏式がおおかったのですが、現在は教会が大勢を占めているような気がします。理由は手軽さです。法事に必要な食事・茶菓の接待が不要。ミサだけですっきりしている。個人的には、友人知己の死亡に際しては一度だけ顔を出してお別れすることにしています。これは長女を早逝させた教訓から得たもので、失う痛みは結局、肉親としかわかちあえない。何度か法事を執り行いながら、遺族は未練を断ち切って、現実の社会にたち還っていくのだと思います。
 最後は代々木公園で締めくくられています。
 『在る日曜日、原宿にある代々木公園に行った。間合い日曜日、アウトドアのロックバンドや歌手を見るために若い群衆が集まる。録音機の音楽でツイストを踊っている』『日本は単に街角を曲がるように、あるいは靴を脱ぐように、せっかちで果敢なテクノロジーの日本と、伝統と儀式に息づく日本が在る。たんに街角を曲がるだけで、あるいは靴を脱ぐだけでそれができる国なのだ』
 この本にはずい分偶然が重なっていました。92、95年ごろ立て続けに私にも訪日があり、国際交流基金の研修では、フェルナンドが訪問したところを歩いてきました。芦ノ湖の美術館も倉敷の大原美術館もこのジャパン・スケッチでもう一度訪問したような気分です。大原美術館には有名な油絵があって、お金持ち日本のイメージを形にしているんですね。フェルナンドもトイレにピカソの絵があったと驚いていますが。
 この94年というのは、日系社会ではスールブラジル産業組合、コチア産業組合が崩壊した年でもあるんですが、『百年の水流』の中で外山脩はその要因として、日系人のひ弱さをあげています。グロバリーゼションが一般化している現在は、弱肉強食の世界政治が舞台になります。日本人(日系人も含めた)はだいじょうぶなんでしょうか。(おわり)