第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(29)

ニッケイ新聞 2013年6月22日

 ただ、前出の香山の四十年史によると、ピエダーデでは、1945年5月、日本人80人が無届けで集会をやり、サンパウロ送りになったという。もっとも、事実なら、やった方が無茶というものであろう。
 サンパウロ在住の川村久賀須さん(2009年現在92歳)は、こう語る。
「戦時中は、ビアジャンテ(行商人)をしていた。ベロ・オリゾンテで、サルド・コンヅット(旅行許可書)を所持していたにもかかわらず、警察に引っ張られた。10日ほど留置された。警察の幹部の一人は、私をリオのイーリヤ・ダス・フローレスへ送るとまで言った。が、もう一人の幹部が言い争いまでして、それを止めさせ、私を釈放してくれた。最初、所持金を取り上げられ、戻っては来ないだろうと覚悟していたが、これも戻ってきた」
 先に暁星学園の話が出たが、やはり私立学校として、年頃の娘さんを教育していた赤間学院(通称)や日伯実科女学校は、日本語教育は戦時中も続けた。視学官が理解ある態度をとってくれた、という。
 赤間学院は、午前中はポルトガル語で、午後は日本語で授業をした。が、視学官は黙認していた。一度だけ、閉鎖されかけたが、急遽、別法人を設立して切り抜けた。
 日伯実科女学校では、視学官が「日本語教育を継続していることは知っているが、日系ブラジル人を立派に育て、日本文化をブラジルに導入するという趣旨であるから……」と見逃してくれた。
 ブラジル人だけではなく米国人が、日本人を保護したという話もあった。
 ノロエステ線リンスに米国系の中学校があって、校長は米国人であった。生徒の中には日本人も多かった。戦争が始まった時、校長は全校生徒を集めて、こう訓示した。
「戦争が始まったけれど、我々は仲良くやらねばならない。日本人だからといって退学する必要はない」
 その生徒だった人の思い出話である。
 なお、迫害が酷くなった1942年6月、渡辺マルガリーダ夫人(一世、マルガリーダは洗礼名)を初めとする有志たちにより「カトリック日本人救済会」が組織され、留置中の同胞への差し入れや困窮しているその家族の援助を始めた。この団体は戦後も社会福祉活動を続けた。これが前出の救済会 である。
 半田日誌。(文中「警事」は「刑事」の間違い、ノン・プレスタは役立たず、ポーブレは哀れの意味である)
1 943年。
「七月十一日 …(略)…昨日ジレイタ街を歩いていたら、中年のドイツ人が、ママ 警事に引っ張られて行った。盛んに反抗していた…(略)…」
 「九月十日 一日として戦争のことはわすれられない」
「十一月十六日 散髪屋で…(略)…入れかわりたちかわり、三人の刑事に見まわれ      
た。日本語を話しては はいけない、と…(略)…」
19 44年。
「一月三日 久しぶりでモヂの中山さんを訪う。…(略)…中山さんはどうしても日の丸の下で子供を育てるために…(略)…帰国したい、という」
「二月二日 翁長さんのところへ(行くと)、イタリア人の女の人が訪ねて来ていたが、やっぱり戦争がすんだらイタリアへ帰ると言っていた。『今、サンパウロでは、イタリア人はノン・プレスタなんですよ。降伏しましたからね。ポーブレ・イタリア。でも、私はイタリアへ帰りたい。そして、この娘(17歳の娘を連れていた)にも、イタリアへ行ってから、ムコさんをさがしてやる、と言っているんですよ』と翁長さんの奥さんと話していた」
「五月九日 野村さんが捕まって約一週間になる。密告らしい」
「七月八日 日本人でも敗戦論者がいるそうだ。某々の名前が噂にのぼる。だまっておればよいのに、くだらない先見の明を誇りたがる者もいるものだ」