第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(32)

 後 者は、ブラジルに居って、志願あるいは召集により、イタリア戦線へ出征した日系兵士たちである。もっともイタリアは降伏した後で、戦った相手はドイツ軍であった。1944年から45年にかけてのことである。
 イタリア戦線へのブラジルからの派遣軍の総数は2万5千名、その中に日系兵士は40余名。戦死者は全体で451名、日系は1名。
 2009年、筆者は生存者を探してみた。協力者=京野ヨシオ退役陸軍大佐=のおかげで、一人見つかった。児玉ハウーである。サンパウロにある在郷軍人会の本部で会うことになった。その本部に行くと、老齢の人々が懐かしげに歓談していた。イタリア戦線への出征兵士の集りということであった。が、日系らしい顔つきの人がいない。
 京野大佐が「こちらが児玉さん」と引き合わせてくれたので、児玉と判ったが、顔つきはブラジル人そのものだ。日本語は全く話せない、という。ブラジル生まれの日系の夫人もいたが、やはり、それに近い。二人の喋り方も仕草も完全にブラジル人そのものだ。目だけが日本人的な感じを残している。こういう日系人はめずらしい。既述の、戦前のブラジル生まれの日本人とは違う。
 児玉は92歳だという。至極、元気そうだ。「私の両親は笠戸丸移民だ」と誇らしげに微笑した。1917年に生まれ、少年時代はソロカバナ線プレジデンテ・プルデンテで育った。後、サンパウロ市内の農機具商で働いた。1944年に召集された。その数年前に陸軍の短期コースの教育を受けたことがあり、その関係で指名されたのだろう、という。
 一兵士としてイタリア戦線に送られた。ドイツ軍と交戦中の前線と後方の補給基地を往復する貨物自動車の運転手をした。兵糧弾薬を前線へ、死傷した兵士を後方へ、運んだ。
 1945年2月、最大の激戦地モンテ・カステロでドイツ軍の砲撃を受け、足に重傷を負った。近くに居た少尉の首が身体から、ちぎれて吹っ飛ぶのを見た。児玉は、米国に送られ、治療を受け、46年退役した。
 筆者は「日本の同盟国ドイツと戦うことに、何か感じなかったか?」と聞いてみたが、答えは「向こうは向こう、コッチはコッチ」と、カラリとしたものであった。
 「ブラジルからの派遣軍の指揮官の中にはドイツ人もいた。それがドイツ軍と戦っていた」とも付け加えた。
 児玉は、イタリア戦線へ出征した日系兵士が、もう一人生きているかもしれない、と教えてくれた。居所はモジ・ダス・クルーゼスの何処かだという。筆者はモジの知人に問い合わせてみたが誰も知らない。モジといっても広く日系人は多い。半ば諦めかけて数カ月後、別の取材先で偶然手がかりを得、会うことができた。
 その兵士の名前はナカソネ・サツキという。モジの市街地の外れに住んでいた。2010年、その自宅を訪れて話を聞いた。
 身体が衰弱しており、聴力も弱っていた。その聴力のことは予め聞いていたので、ポルトガル語で書いた質問書を用意して行った。が、視力も衰えており読めない。こちらの質問を、家人がサツキの耳元で、何回も繰り返した。
 88歳。両親は沖縄県人。「ナカソネ・サツキ」を日本文字でどう書くかは知らないという。マズイ事に、昔のことは殆ど忘れたともいう。
 家人の話によると、イタリア戦線から復員後、戦争の話をすると、ネルボーゾ(神経が昂ぶる) 状態になり、肌に白いまだら 斑が点々と浮いた。医者の指示で戦争の話はしないようにし、本人も忘れるべく務めた。
 止むを得ず「何でもよいから覚えていることを話してくれ」と、頼んだ。
 以下は、そうして聞いた断片的な話である。
「生まれは1921年、インダイアツーバ。小学校もロクに行かず、7、8歳頃から牛追いをした」
「42年に召集された。新聞に何年生まれの者は来い、と通知が出たので、行ったら、兵隊にとられた」(つづく)