日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (5)=失望のフィリピン、ブラジルへ=「悔いを千歳に遺すだろう」

ニッケイ新聞 2013年6月28日

ブラジル殖民に関わっていた中年頃の青柳郁太郎(『物故先駆者列伝』より

ブラジル殖民に関わっていた中年頃の青柳郁太郎(『物故先駆者列伝』より

 青柳が移民を送り出していた当時のフィリピンは、1898年の米西戦争の結果、米国の支配下になっていた。1903〜4年がフィリピン向け移民のピークで5千余が渡った。ルソン東北部山岳地帯のバギオに通じる「ベンゲット道路」敷設工事などの単純肉体労働者が大半で、高い賃金目当ての男性単身者が多く、しかも地理的に近いので「デカセギ的」な特徴が強かった。
 植民にこだわっていた青柳としては、一攫千金そのもののフィリピン移民は不本意であり、定住型の移植民政策にこだわり模索し続けていた。ブラジルの名は知っていただろうが、外務省筋にとっては「土佐丸事件」が尾を引いていた。
 1897(明治30)年に吉佐移民会社が送り出すはずだった〃幻のブラジル移民〃だ。1500人もの移民を募集し8月15日に出航予定として準備が終わっていたのに、わずか10日前に「珈琲価格暴落、契約労銀の支払等到底不可能故移民送出を中止されたい」と一方的にブラジル側から撤回が申し渡され、大損害を被った一件だ。
 「土佐丸事件」から8年後——日本人植民地建設の候補地としてペルー、フィリピン、メキシコでの苦い経験を経て、最後に再びブラジルを有望と論じる杉村濬(ふかし)公使の報告書(1905年6月)に陽が当たった。
 水野龍は「海外移民事業ト私」の中で《予てブラジルに対する関心は多大にあつたのであるが、土佐丸事件以来ブラジルに関する情報には対伯移民送出に有利なものは一つも無く、未だ気運到らずの感が深かつた。杉村公使の調査はこの様な形勢の中身を全く新らしい局面を開かうと云ふのだ》(国会図書館「ブラジル移民の100年」サイトより)と書く。
 だが、よく見ると、ここにも一つの謎があることに気付いた。
 杉村濬が駐伯弁理公使としてリオに赴任したのは1905年4月19日であり、この報告書は6月にもう日本の外務省で発行されている。もちろん初来伯であり、赴任後に調査、執筆、編纂、印刷などの工程を考えると、あまりに早すぎる。まるで赴任前から用意していたかのようだ…。
 青柳名で1908年に桂首相へ提出された「海外植民政策に関する意見書」は、ブラジルを選ばなければ《吾等は只世界の一角にのみ残留せる唯一の植民地用地を失い、悔いを千歳に遺すであろう》との趣旨を強調した。それまでの苦い経験を込めていたに違いない。当時、49歳。
 現代の目からこの文章を読むと、いかにも侵略主義的だと感じるが、当時は英国、スペイン、ポルトガル、オランダなどが南米、インド、アジア方面で植民地を分け合い、遅れてきた米国、フランスが残りを激しく取り合っている時代だった。
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 ようやく青柳の視点はブラジルにたどり着いた。これからが、日本の23倍の国土を誇るブラジルの中でなぜレジストロ地方が選ばれたか——だ。
 〃移民の祖〃水野龍は後年、青柳郁太郎を評して《彼は私の仕事に就いて影となり陽となって援助してくれたが、しかし珈琲移民の送り出しには最後まで反対で、彼とは相当議論したが、議論では絶対に譲らなかった。彼は終始一貫して植民論者だった》(『六十年』1頁)と追想した。
 水野龍は現実的な考え方をする人物で、「移民送り出し」の事業化を優先した。そのために「ブラジルには金のなる木がある」と宣伝し、一時的なデカセギ労働者でもいいからと、まずはモジアナ線のコーヒー大農園に大量斡旋した。対する青柳は、定住を前提とした植民地を建設するべきだと主張して止まず、その理想主義的な第一歩が桂植民地となった。
 その発想の違いはどこに端を発するのか。明治という時代を少し振り返ってみたい。(つづく、深沢正雪記者)