日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (7)=黒幕は大浦兼武農商務相=抜刀隊出身の薩摩系重鎮

ニッケイ新聞 2013年7月2日

大浦兼武(『イグアッペ植民地二十周年写真帳』より、1933、安中末次郎)

大浦兼武(『イグアッペ植民地二十周年写真帳』より、1933、安中末次郎)

 レジストロ地方植民前史を紐解いて改めて驚くことは、ブラジル移民史において、ここほど明治の政治経済界の重鎮が関わっているところは他にない——という点だ。
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 1908年に青柳名で桂首相に提出された「意見書」を見ていて気になるのは、やたらとドイツを参考にしている点だ。
 例えばドイツが近年、北米、オーストラリア、南米に向けて工業製品の輸出を増大させているのは、単に工業の発達によるだけでなく、前もってそれらの国々に植民をして勢力を拡張し、《自らドイツ製品の需要を増せるのみならずドイツ的趣味を普及せしこと亦与りてだいに力有り》(『発展史』下同4頁)という具合だ。
 そしてドイツ政府にならって事務を行なう植民局、政府の諮問機関として植民参事会、移民の渡航を確保して在外移民の教育を補助するような移民会社を設立して庇護する必要を「意見書」で説いた。しかし、なぜドイツなのか。
 「意見書」を提出した勉強会のメンバーを見ると、ドイツへのこだわりの真因が見えてくる。《ブラジルに対する日本人移植民事業の実行方法の研究が、1907(明治40)年、大浦兼武(おおうらかねたけ)子爵を中心に、工学博士長谷川芳之助、床次竹二郎(とこなみ・たけじろう、内務省地方局長)、青柳郁太郎諸氏らによって創められた》(『パ紙先駆者伝』5頁)とある。つまり、大浦兼武が黒幕的中心人物で、青柳はいわば若手の表看板のような存在だった。
 ちなみに、もし青柳の生年が『列伝』にあるように1867年生まれなら1908年当時の青柳はまだ41歳のはずで、大浦兼武は58歳、長谷川は53歳であり、それら重鎮を差し置いて、青柳の名前で桂首相に提出するのは少々不釣合だ。1859年なら49歳なので、まだありえる。
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 では、勉強会の〃中心〃たる大浦兼武(1850—1918)はどんな人物なのか。
 大浦は薩摩藩士として生まれ、戊辰戦争では薩摩藩軍に参加し、上野戦争や会津攻撃で武功をあげ、維新後は警察官となった。1877(明治10)年の西南戦争では政府軍の中隊長を務め、雌雄を決した有名な「田原(たばる)坂の決戦」では抜刀隊を率いて大活躍し、陸軍中尉兼三等小警部となった。
 士族中心の西郷軍は抜刀切り込み攻撃により、町民・農民中心の政府徴兵軍は白兵戦に対処できず手を焼いていた。そこで警視隊の中から剣術に秀でた者を選抜して抜刀隊が編成され、大きな戦果をあげた。
 ウィキ「大浦兼武」項によれば、1882(明治14)年には大阪府警部長(現在の警察本部長)になり、1884年に起きた陸軍兵士と警察官の大乱闘事件では、軍服姿で両方の上司として現場を治め、評価を上げた武勇伝を持つ。
 大浦兼武は島根、山口、熊本、宮城県の官選知事として赴任し、1900年には貴族院議員に勅撰された。1903年に第1次桂内閣で通信大臣として初入閣し、第2次桂内閣(1908年7月〜1911年)では農商務大臣、第3次桂内閣(1912年12月〜1913年2月)では内務大臣になった。立憲同志会の創立にも関わる薩摩藩系の重鎮だった。
 この経歴からは、1907年の勉強会当時は通信大臣としてすでに内閣中枢にいたが、移植民問題への深いこだわりを見せる中で、食糧政策の中枢たる農商務大臣、最終的には移民事業を管轄する内務大臣へと移り変わっていったことが分かる。
 白鳥堯助(あきすけ、海興サンパウロ支店長)の談話として「(桂首相は)海外移植民の方向性を重要視し、第3次内閣を組閣するにあたり、今度は移住事業の中心となる内務大臣(1915年1月〜同年7月)に大浦を据えた」と『As Colonias na Zona do Ribeira de Iguape』(1928、Jorge T. Midorikawa、19頁)にも書かれている。(つづく、深沢正雪記者)