連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第110回

ニッケイ新聞 2013年7月5日

「パウロ、聞いてくれ。叫子と相談したんだ」
 顔を上げたパウロは涙を流していた。テーブルの上にあったティシュペーパーを二三枚引き抜き、叫子がパウロに渡した。涙を拭きながら、小宮をじっと見つめた。
「夜間中学で勉強して中学卒業の資格を取る気持ちはあるか」小宮が聞いた。
「もちろんあるさ。でも、その余裕が……」
「こっちに来て」
 叫子はソファから立ち上がり、玄関のドアを開けた。そのドアのすぐ横にあるもう一つのドアに鍵穴にキーを差し込み、ドアを開けた。
 部屋は六畳間くらいの広さで、スーツケースや日本語の本が床の上に無造作に置かれていた。
 叫子は部屋の隅にあるバスルームにパウロを案内した。
「この部屋にカーマ(ベッド)と小さなメーザ(テーブル)を置いてあげるわ。ここから夜間中学に通えば勉強はできるでしょ。あとはパウロのやる気しだいよ」
 叫子が言った。それでもパウロの表情は暗い。どれくらいのアパート代を取られるか、それを心配しているのだろう。
「部屋代と食事代は出世払いでいいよ」と小宮は言おうとしたが「出世払い」をポルトガル語でどう翻訳すればいいのかわからなかった。
「部屋代はどれくらい払えばいい?」パウロがかすれるような声で聞いた。
「パウロがいつか自分のディーラーを経営する社長になったら、その時パウロが払えるお金で返してくれればいい」小宮が答えた。
「食事代は私の作る料理に文句を言わないなら無料。その代わり中学は落第しないで最短年数で卒業すること、いいわね」
 叫子の説明を聞いてパウロは笑いながら泣いていた。
「セニョーラの作る料理は、一流レストランの食事と同じだ。文句なんか言わないさ」
 こう答えると、パウロは小宮の手を握りしめて言った。
「ありがとう。一流のメカニコになってみせる。今まで以上に俺はがんばるよ」

 その次の日曜日の夜、パウロはスーパーでもらうビニール袋二つに着替えを詰めるだけ詰めてやってきた。
「荷物はそれだけ……」
 叫子が信じられないといった顔で聞いた。
「毎日洗濯するから大丈夫さ」パウロは苦笑いを浮かべた。
 小宮は女中部屋のカギをパウロに渡した。パウロはカギをもらうと、鍵穴に差し入れた。ドアを開ける前に、小宮と叫子の顔を真剣な表情で見つめた。
「自分一人の部屋なんて、生まれて初めてなんだ」
 パウロの家を訪れたことはないが、小さない家に家族全員が暮らしているのだろう。
「卒業するまでは自由に使っていいのよ」
 叫子が部屋に入るように言った。
 パウロはクリスマスプレゼントをもらう子供のような笑みを浮かべながらドアを開けた。
「メウ・クワルト!(俺の部屋か)」
 部屋にはベッドと毛布、食事と勉強ができる机に椅子、壁際に中古の小型冷蔵庫と、その上にポットとコップ、コーヒーカップが置かれていた。
「ホテルのようだ」
 パウロはベッドの上に大の字になり、寝心地を確かめながら言った。
「ジャンタ(夕飯)はまだなんでしょう。私たちはもうすませたから、あなたの部屋に持ってきてあげる」
 叫子は自宅のキッチンから、四段重ねになっているアルミの容器を運んできた。ブラジル式の重箱のようなものだ。ご飯、フェジョン、それに肉、最上段にはサラダが入っている。(つづく)

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