日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (18)=北米大企業家が投資する地=百年前に1時間26通電報

ニッケイ新聞 2013年7月18日

 南大河州民がサンパウロ州民とは全く違う州民性を持っているのは、ドイツ移民の影響が大であると、青柳は考え、植民事業の有望さに感動したようだ。彼がどこまでブラジル史に通じていたか不明だが、その州民性の違いは必ずしも外国移民の影響ではなく、国境地帯という地理も深く関係していた。
 というのも、同州では1835年から45年まで「ファラッポスの戦い」が起き、ブラジル帝国に対して共和制を訴え、独立宣言して「リオ・グランデ共和国」を名乗った土地柄だからだ。
 すぐ隣のウルグアイは、ブラジル帝国から1825年に独立宣言して実際に1828年に公認され、建国した。その流れに触発された「戦い」だった。導入後15年程度だったドイツ移民はまだ大きな影響力を持たず、フリーメイソンやイタリアの共和制主義者の流れが強かったとの説がある。
 ブラジル帝国が実際に民主的な共和制を布くのは、約半世紀後の1889年だ。いざ帝政が倒れて共和制宣言を出した時には、南大河州ではさらに一歩進んでいた。「連邦制」信奉者が共和国政府に対して「連邦主義者革命」を1893年から1895年まで起こしていた。青柳の連載にはそのへんの記述は一切ない。
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 青柳は南部視察にあたり、まず鉄道について詳細に聞き出すべく、パラナ州の南伯材木会社の技師やリオ・グランデ鉄道の関係者と何度も接触した。当時、鉄道といえば最新の陸上交通機関であった。
 青柳は次のような情報を聞き出した。《材木会社と伯鉄道会社とは其実同体にしてパルシバール、ファルクツール氏は両社の社長なり。氏は加奈陀東部に生れ、米国に於て教育を受け、年歯尚四十四五の男なるが、専ら其脳力を事務に集中して事務以外は決して話さず。年中非常に多忙にして、数月前特別汽車にて当地に来りしが、当地一時間の滞在中二十六通の電報を受取れり。常に数名の書記を伴い汽車走行中にも用を弁ず》。
 今から百年以上前の1908年当時、1時間に26通もの電報を受け取る仕事をしていた人物とは、いったい何者か。
 パルシバールとは「ペルシバル・ファルクァール」(Percival Farquhar、米国ニューヨーク、1864—1953)のことだ。米国人でクエーカー教徒、鉄道事業に強い大企業家として知られ、米国企業の中南米進出の尖兵となった人物だ。キューバ、グアテマラでも鉄道会社を経営し、ブラジルではロンドニア州のマデイラ鉄道敷設工事を請け負って有名になった。《資本は仏国に於て募集せるもの多しと云う》とあり、ロシアで鉱山開発もしていた当時有数の国際的企業家だった。
 彼のポ語ウィキ項によれば、《ファルクァールは1905年から18年にかけてブラジルにおける最大の民間投資家だった。ロナルド・コスタ・コウト元大臣の著作によれば、その〃帝国〃に匹敵しうるのは、わずかにフランシスコ・マタラーゾ、ヴィスコンデ・デ・マウア(イリネウ・イヴァンジェリスタ・デ・ソウザ)ぐらいであった》とあるほどだ。
 青柳が乗って南下したサンパウロ=リオ・グランデ鉄道は、1908年にファルクァールのブラジル鉄道会社が買収したばかりだった。サンパウロ州イタレレーから南大河州サンタマリアまでの総延長1403キロに及ぶ大鉄道計画を実施する途上で、当時はまだあちこちで途切れていた。
 この南部地域はパラナ松などの有望な木材があり、鉄道沿いの土地を線路両側に15キロずつコンセッソン(土地の無償給付)を受けることを連邦政府と約束し、彼が南伯木材会社と拓殖会社を同時に起業していた。鉄道、林業、拓殖を同時に進めるという壮大な計画で、実施に必要な4千人とも言われる人夫を全伯からかき集めていた活気ある時代だった。(つづく、深沢正雪記者)