コラム 樹海

ニッケイ新聞 2013年7月19日

 「上塚周平さんは少しも気取らない、大変庶民的な人でした。母が日本で師範学校を卒業していて、プロミッソンに入植してからも日本語学校で教鞭をとっていた関係で、母に連れられて上塚さんのご自宅に伺ったことを覚えています」。清水道子さん(88、大分)=スザノ在住=の思い出話に聞き入った。「上塚さんのご自宅は、ごく普通の、簡素で小さな開拓小屋でした」とも▼上塚周平(熊本)の父 ・俊蔵は、開国論者として有名なあの横井小楠の小楠堂で19歳から4年間みっちりと漢籍を学び、薫陶を受けた人物だ▼周平本人は東大法学部に入学したが、植民事業の勉強に熱中したあげく落第し、友人から資金援助を受けていたことが父に発覚して一喝され、学業を諦め一端帰郷したとの逸話がある▼上京、復学し卒業した時にはもう31歳。そんな時に皇国殖民会社の水野龍社長の右腕、移民監督として笠戸丸に乗船し、1918年に上塚植民地を開設した。特権的な扱いを求めず、あくまで移民大衆と同じ生活に拘り、〃ブラジル移民の父〃と敬われた▼1935年、雨の中、トラックの荷台に皆が乗ってプロミッソンの町に出た時、途中で泥道にはまって動けなくなり、若い者が降りて車の後ろから押すことになった。皆が止めるのも聞かず、上塚も降りて一緒に押すのを手伝ったという。その時にびしょ濡れになったのが原因で、風邪をこじらせ亡くなった▼上塚の生年は1876(明治9)年7月19日、没年は1935(昭和10)年7月6日と今月は縁が深い。そして今年は上塚植民地開設95周年、彼の地に眠る先人のことも忘れずに、日々を過ごしたい。(深)