第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(50)

ニッケイ新聞 2013年7月24日

 つまり、間もなく始まる彼らの襲撃の真の動機は、認識派史観が言う様な「敗戦認識の啓蒙運動を封じるため」ではなく「敗戦派の中に広まっているという皇室や国家に対する暴言」「軽率で無責任な啓蒙運動に対する怒り」だったのである。
名前は初登場だが、押岩と同じキンターナの住人で、襲撃では山下や日高と行を共にした蒸野太郎は、こう語る。(蒸野=むしの)
「(敗戦派が)天皇の悪口をパンフレットにして配っている、という話を聞いて、そんな人間は殺してしまわなければならないと思った。最初、地元でやろうということになった。が、ここは枝葉、幹・根っ子をやらねば駄目だ、ということになり、そこでサンパウロへ出た。
 後で裁判を受ける時、精神科医師の診察を受けたことがある。その時『日本は勝ったと思うか負けたと思うか?』と質問された。ワシは『勝ったか負けたかは知りません』とハッキリ答えた。それは覚えている」
 なお、蒸野は和歌山の産で、1919(大8)年生まれ。日本では父親と筏乗りをしていた。「一度、油断して川に落ち、後で父親から竿で背中を叩かれた」ことを覚えている。18歳の時、家族移住をした。
 もう一人、やはりキンターナの住人で、前記三人とは別の襲撃事件に参加した三岳久松(既出)は、
「向こうが、皇居の石垣にボーフラがブラ下がっている、という様なことを言ったのが、いけなかった」
 と言う。向こうとは、敗戦派のことである。
 しかしながら、彼らの決起の動機は真意とは違う内容で報道され、かつ記録された。
 日高は「皇室・国家の問題が、戦争の勝敗問題にスリ変えられた」と、憤慨する。

 「テロに非ず!」

 テロという言葉についても、彼らは首を振った。彼らの真情には合わないというのである。山下は「テロなどという大それた意識はなかった。一度だけ過激な行動に走る……という気分だった」と言う。
 彼らは、皇室、祖国を守るため、そして邦人社会の混乱を惹き起した指導者の覚醒を求めるため、身を捨てて決起したという。とすれば、確かにテロという表現は、この人々の真情には合わないであろう。
 テロという言葉は、英語であり、政治の世界で敵対する相手を暗殺する行為を指している。権力の争奪戦である。対して、彼ら襲撃関係者の動機に政治的な目的はなかった。
 テロという英語が意味するモノとは、本質的に異なっている。

 筆者が、この襲撃事件の関係者たちに会って意外に感じたのは、皆、穏和で澄んだ人柄の、普通の人であるということであった。普通の人と違うところがあるとすれば、私心が極めて薄い、という点であろう。
 彼らが、かつて狂信者であったなら、人柄や話のどこかに、その片鱗が残っていなければならない。そういうものは皆無であった。
 ここで我々は、再び「ナショナリズム」という言葉を思い出さねばならない。
 彼らは、天皇制と国家主義を組み合わせた日本独特のナショナリズムの昂揚期に、少・青年時代を送った人々である。天子様を崇拝、その臣下であるという意識に目覚め、大日本帝国とその国民であることを自覚、誇りとして成長した世代である。それは信念、信仰にまで昇華していた。これは、日本人としての最高の美意識でもあった。
 その「美」を穢された時、それを雪ごうとして命をかけて行動する。それは、自然の行動であった。これは理論ではなく、当時の日本人の感覚、本能であった。
 日本で少・青年期を過ごして渡航した者(押岩、蒸野、三岳)は当然、その美意識の持ち主であった。
 山下博美は僅か3歳で移住した。無論、日本のことは記憶にはなかった。が、日本学校で忠君愛国教育を受けた。日高徳一は7歳で海を渡った。学校には行かなかったが、日本から届く『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』を読み耽けった。
 そうした日々の中で、二人の心の中に、その美意識が芽生え、育って行った。
 それと、押岩は自分には武士道への憧れがあったかもしれないという。蒸野も「武士道は、日本人の心の支柱」と強調する。他の3人には、態々
聞かなかったが、同様であったろう。話の端々から、それは感じ取れた。(つづく)