第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(52)

ニッケイ新聞 2013年7月26日

 なお、詰問組の中には、日高徳一もいた。その日高によれば、60年以上も昔のことであり、細かいことは思い出せぬようであったが、こう語る。
 「我々7人が留置された時には、通路を挟んで向かい側の部屋に、クインの人たち5、6人が入って居られ、全員殴られたり蹴られたりした跡がアザだらけになっており、ひどいものでした」
 無論、殴る蹴るは、警官の仕業であった。

 決起

 この日の丸陵辱事件は、パウリスタ延長線方面の邦人社会に伝わった。
 それを機にキンターナの押岩嵩雄が、同志の新屋敷砂雄らと決起する。敗戦認識の啓蒙運動の中心人物の襲撃に……である。
 新屋敷は、すでに40歳近かったが、青年運動の指導をしていた。押岩は36歳であった。
 押岩たちは、敗戦派の「皇室の尊厳を侵し国家を冒?する暴言」や「軽率な啓蒙運動が招いた邦人社会の内紛」が、この日の丸陵辱事件の如きブラジル人警官の侮り、岡崎たちの行動を招いた、と憤怒したのである。
 しかし、これはキッカケに過ぎなかった。すでに彼らの気分は、決起寸前まで高揚しており、何かキカケがあれば……という状態にあった。
 襲撃の対象は、一応、前年の10月に配布された終戦事情伝達趣意書の署名者7人を想定していた。彼らは、その7人が担がれた存在であることには、気がついていなかった。
 押岩は、丁度その頃、サンパウロに臣道連盟が本部事務所を開いたことを耳にし、谷口正吉ら同志二人と出聖した。臣連がアベニーダ・ジャバクアラの近くに本部事務所を開いたのは1946年1月であったというから、押岩たちの訪れは、それから、そう日数は経っていなかったろう。
 理事長の吉川順治に面接、計画を洩らし、後始末を依頼した。が、吉川は、これを断った。吉川は軍人であったが「問題は、話合いで解決すべきである」という温厚な考え方であった。
 押岩たちはキンターナに帰り、同志たちに吉川の意向を報告、独自で行動することにした。臣連・その他の戦勝派団体に属さぬ者を選んで、同志に招いた。
 決起に参加することになったのは、新屋敷、押岩のほかに、キンターナの本家政穂(39)、上田文雄(34)、谷口正吉(32)、吉田和訓(30)、蒸野太郎(28)、東隣のポンペイアの渡辺辰雄(33)、池田満(30)の9人であった。(カッコ内は年齢)
 職業は、本家がブリキ家、池田が行商、他は農業(棉作り)だった。新屋敷は牧場を持っていた。
 彼らは、皆、特別の人間ではなかった。平凡な移住者であった。
 押岩自身、広島県下の農村の役場で働いた後、夫婦して渡航してきた。キンターナでは棉づくりをしていた。が、夫人が亡くなり、5歳の子供を抱えて農業を続けることが難しくなった。この時期は、シャレッチ(観光客を乗せて歩く小さな馬車)を手に入れ、それを駅前に止め、客待ちをし、客があれば、乗せて、その辺を案内するという仕事で生計を立てていた。シャレッチの助手席には、いつも、その5歳の子供が腰掛けていた。
 ほかの仲間も、もし、こういう特殊な時局に遭遇しなければ、片田舎の、ただの庶民として一生を送った筈の人々である。
 それが、決起した……その心理の動きは、当時の日本人でなければ判らない。(つづく)