第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(54)

ニッケイ新聞 2013年7月30日

 その頃、前出のキンターナ、ポンペイア、ツッパンの決起組が、サンパウロへ移動していた。
 まず、サンパウロに詳しい新屋敷が先行した。彼は、そこで協力者を確保した。
 次いで他の同志が数人ずつ汽車に乗ってサンパウロへ向かった。ルス駅に着くと、出迎えた新屋敷の案内で、協力者の所へ行き、その仕事場に従業員として住み込んだ。
 彼らの出発に際しては、ポンペイアの横山・白石両家族が、総出で協力した。事前の同志間の連絡係りを引き受け、段取りを整え、出発の折は自宅に泊めて送り出した。
 白石カズエは、戦場に向かう弟を送る姉の様に、世話を焼いた。
 その二人の娘の内、15歳の姉の静子は、決起組の使用する11丁の拳銃を、母親と途中(バウルー)まで汽車に乗って運んだ。12歳の妹悦子は、事前の連絡の折、密使を務めた。
 サンパウロでも、彼らには多くの協力者が現れた。潜伏先で、事件後の逃亡先で……。
 日高は「協力者は、全部で30人くらい居たろう」という。
 襲撃目標は、先に記した様に、終戦事情伝達趣意書の7人の署名者の誰か……と決めていたが、誰にするかは、サンパウロで詳しいことを調べてから決めることにしていた。
 押岩嵩雄は、キンターナに残留した。同志の家族の面倒を見ながら、志しを継ぐ者を確保するという役割が与えられていた。

 溝部事件

 緊迫感が増す中──。
 1946年3月7日、突如、ツッパンの西隣バストスで、襲撃事件が発生した。被害者は、敗戦認識を同地の邦人に強く説いていた溝部幾太で、バストス産業組合の采配者であった。その夜、自宅の裏庭で銃撃され、即死した。襲撃者は、そのまま、姿を消した。
 この事件は、前記の決起組とは関係なかった。
 山下、日高は、事件のことは知らなかった。地元に残った押岩の耳には入った。ということは、山下、日高のサンパウロへの移動は3月7日以前だったことになる。
 事件は、サンパウロでは報道されなかったのであろう。この時点では、襲撃者も動機も不明で、単なる一事件に過ぎなかった。
 後に山本悟という(事件当時、バストスに住んで居った)若者が自首して出た。
 通説では、これが認識派に対する最初の襲撃事件ということになっている。バストスでは、その直前「一発で心臓を射抜くゾ」とか「正宗の切れ味を示すゾ」とか書いた紙が街頭に貼られていた。
 ただし、この溝部事件の動機に関しては異説もある。(後述)
 事件の3日後、マリリアで、パ延長線の認識派の代表者たちの第2回集会が開かれた。場所は三浦勇宅であった。三浦も位牌事件で亡者にされた組である。機械部品の工場を営み、成功していた。
 バウルー、ドゥアルチーナ、ガルサ、ヴェラ・クース、マリリア、ポンペイア、キンターナ、トッパン、バストスから約50人が緊張した面持ちで出席した。
 前回同様、西川武夫が議事のメモを残しているが、それによると、席上まず三浦勇から、前回の会議以降の簡単な経過報告が行われた。
 2月25日午後、サンパウロの宮腰千葉太宅で、ソロカバナ線、ノロエステ線、パウリスタ延長線及びサンパウロの認識派有志の懇談会が開かれ、三浦も出席した。が、大した成果は無かったという。
 バストスの溝部事件に関しては、同地の山中弘が報告している。
「原因ノ一トシテ産組改造問題ニヨル意見ノ衝突アリタル事等取上ゲ居ラレルモ殺人ニ至ルマデトモ思エズ…(略)…認識運動ノタメト見ラレテ居ル」と。(つづく)