連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第127回

ニッケイ新聞 2013年7月31日

 「日本は勝った」と異様な熱気に包まれた日系社会で、負け組の人々は「非国民」と罵声を浴びせ掛けられ、命を狙われた。そして一九四六年三月七日午後十一時三十分頃、バストス産業組合専務理事の溝部幾太が、バストス市街地にある自宅裏庭で背後から拳銃で撃たれ死亡した。
 その後も、勝ち組によるテロの嵐が吹き荒れた。
 その一方でこの混乱を利用する詐欺師集団も日系社会には生まれた。ただひたすら日本の勝利を信じる移民に、日本へ帰国する乗船券を売る詐欺師さえ現れた。
 児玉にはにわかには信じられなかったが、朝香宮を名乗る皇族まで日系社会には出現している。朝香宮の本名は加藤拓二で、彼はサンパウロ近郊に勝ち組を集めて集団生活をし、彼らに寄付をさせ、優雅な生活を送っていたらしい。
 戦前の日本の貨幣もブラジルには存在したが、そんなものは紙クズ同然だった。それを勝ち組に売りつけた者もいた。
 日本は終戦の翌年一九四六年二月十七日に、金融緊急措置令を出した。終戦時の八月、日銀券の発行高は三百二億円だった。それが四ヶ月後の十二月には五百五十四億円に跳ね上がった。この超インフレを抑えるために、すべての預金を封鎖し、旧紙幣は三月六日で廃止し、翌七日からは新紙幣を使用することにした。
 このためブラジルにある旧円紙幣は紙屑同然のものとなってしまった。しかし、勝ち組の間では、異常な高値で売買された。円を保有している者は、日本が勝った、勝ったと騒いでいるうちにブラジル貨に換金しておかなければ大損害を被ることになる。こうして戦勝に湧く日系社会では無価値の円が売買されていたようだ。

 戦後の相克を経て、日系人はブラジル永住の意思を固めていったが、児玉はこうした事件、詐欺に関係した移民はどうしているのか、取材してみたいと思った。昼食を新聞社近くのバールで済ませると、児玉は当時のことを知る老移民を毎日のように訪ね歩いた。
 各県の県人会役員、戦後の地方の混乱を知っているヴィアジャンテ(奥地を回る出張外交員)やマスカッチ(奥地を回る行商人)、日系人が設立した南米銀行関係者、コチア産業組合役員、彼らから当時の話を聞くと同時に各地方の日系人会の役員らを紹介してもらった。
 日本の雑誌に原稿を送るということは伏せて、児玉はいずれ日本に帰り支局運営に携わるので移民の歴史を調べていると、取材目的を説明した。ほとんどのものが自分の体験や勝ち組、負け組の抗争について語ってくれた。
 取材を続けていると、声をひそめて戦後の円売りについて話す移民もいた。それはサンパウロ新聞社の美津濃社長が、戦後の一時期、勝ち組に旧円紙幣を売りさばいていたという噂だった。
 その話を児玉に話してくれた移民は一人や二人ではなかった。しかし、実際に円紙幣を美津濃社長から買った人間を教えてほしいというと、一様に口をつぐんでしまった。
「今となっては恥ずかしいから、事実を新聞記者に語る人はいない」
 理由を聞くとそんな返事が戻ってきた。
 それは旧円紙幣を買ったという移民だけではなく、実際に日本に帰る乗船券を買った人の消息を尋ねると、誰もが沈黙した。テーマは興味深いものだったが、噂の域を出るものではなかった。
 ニセ宮様の加藤拓二はパウリスタ新聞にも実態を暴く記事が連載され、本人はサンパウロに居づらくなり、日本に帰国していた。噂と事実が混同して、日系社会には流布しているような印象を児玉は受けた。
 その頃になるとサンパウロ州やパラナ州の地名を言われても、およその位置は思い浮かべることができたし、主だった事件の関係者の名前も頭に叩き込まれていた。いずれ東京に戻り、支局の仕事をする上でも知っておかなければならない歴史だと児玉は考えていた。(つづく)

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