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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第133回

ニッケイ新聞 2013年8月8日

 そう言ったきり自分部屋に入り、風呂にも入らずに寝てしまった。その様子を見て、幸代は兄の容福はやはり死んでいると確信した。自分の思いを心に秘めておくことのできない母親が沈黙する理由は、筆舌に尽くしがたいショックを受けたからだろう。
 翌朝、仁貞は朝早く目を覚まして居間のコタツに入りお茶を飲んでいた。精気がなく疲れが顔に出ている。幸代も冷たい水で顔を洗い、眠気を振り払ってコタツに足を入れた。
「で、どうだったの」
「どうもこうもなかった。あの時、亭主の片足を切り落としてでも日本に残しておくべきだった」
 父と姉の生活は仁貞の想像をはるかに超えていたのだろう。
「あんな掘立小屋で亭主と文子が暮らしているなんて思ってもみなかった。あれが地上の楽園なら、日本の地獄の方がまだましな生活がおくれたというものさ」
 共和国の滞在は二週間。しかし、親子が再会できたのは一晩だけ。しかも深夜の十二時過ぎまで案内員という名の監視役二人が付き添い、自由に話をさせてくれなかったようだ。
「時計を一つずつと新潟港で買った日本のタバコを一カートンずつ渡したら、ようやく引き上げていった」
 自由に話せるようになったのはそれからで、翌朝案内員が再びやってきた午前八時までは一睡もしないで話をしたようだ。
 母親の話によると、新潟港を夕方に出港した万景峰号は翌朝には清津港に入港していた。国際貿易港の横浜港を見慣れている仁貞には清津港は、日本のさびれた小さな漁港のように感じられた。高層ビルもなく、山の斜面に小さな家々がいつくも見えた。
 目を引いたのは「金日成元帥万歳」「朝鮮労働党に栄光あれ」という横断幕だった。入国手続きをすませ、そこで家族と再会できるとばかり仁貞は思っていた。他の訪問団団員も、帰還した家族が出迎えてくれると期待していたが、清津港には誰も来てはいなかった。
「着いてからが大変だった。なかなか家族と会わせてくれなかった」
 港からバスで清津市内に向かった。区画整理が進み、市内にはトロリーバスが走り落ち着いた雰囲気の街に思えたが、ビルもどことなく貧弱でトラックが走っていた。バスは朝鮮労働党清津市庁舎の前に建立されている金日成像の前で止まった。十五、六メートルはあるかと思える巨大な銅像で、訪問団は全員バスから降ろされ、銅像に一礼するように案内員から指示された。
「それからはどこへ行っても偉大な首領様の銅像や肖像画に頭の下げっぱなしさ」
 仁貞は忌々しそうに吐き捨てた。
「まさかそんなことを案内員の前で言わなかったでしょうね」
 放っておけば言い出しかねない母親なのだ。
「そこまでバカじゃないよ。とにかく家族と対面できるまでは、涙を流し首領様に感謝していることを案内員にもわかるようにしてやったさ」
 そういうところは機を見るに敏なところはある。市内の名所というより金日成と朝鮮労働党ゆかりの史跡を連れ回され、夕方に清津招待所に着き、そこで一泊し、翌朝、平壌に向かうことを告げられた。
 部屋はオンドルパン(房)で、二人の団員が宿泊した。部屋には冷蔵庫はなく、タンスが部屋の隅に一つ、その上にラジオが置かれていた。部屋に入ると、朝鮮労働党の活動内容をわめきたてるような調子で女性アナウンサーが話していた。
 夕飯までの短い時間、疲れきっていた二人は布団を敷いて横になりたい気分だった。放送を切ろうと思ったが、ラジオにはスイッチがなかった。放送は夕飯の時間に指定された午後七時まで、同じ口調で流され、七時と同時に終了した。
 二日目も清津市内の史跡を連れ回された。仁貞はどこを訪ねたのかまったくと言っていいほど記憶していなかった。二日目も清津に宿泊するのかと諦めかけていると、夕飯後、バスに乗せられ清津駅に向かった。(つづく)

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