特攻隊教官が日語教師に=聖南西に込めた伝統精神

ニッケイ新聞 2013年8月10日

 「教え子をたくさん戦場に行かせたのに、自分は長生きしすぎた。そう言っていました」。聖南西教育研究会創立30周年式典のおり、創立者の一人、村中千寿さん(88、バウルー生まれ)=サンパウロ市在住=は、同地で日語教育に人生の最後を捧げた元特攻隊教官の夫、博さん(熊本県)の生き様を、そう振り返った。
 博さんは旧制宇土中学卒業後、海軍に入隊し、1935年から45年まで教官を務めた。「宮様の久邇邦昭王(昭和天皇の甥)も兵学校時代の教え子で、1年余り教えた」が自慢の種だったという。開戦時は土浦航空隊として海の予科練を育て、鹿児島の航空隊、広島の江田島兵学校でも教鞭を取った。「江田島で教えているときに、ビカッという強烈な光が教室に入ってきた」と原爆投下時のことを語っていたという。
 終戦後は熊本の本家で農業に従事し、青年会や農協で活躍し、村人を元気付けようと運動会を実施した。教え子の特攻隊員が戦死し、自分だけ生き残ったという思いから仏門に目覚め、浄土真宗に帰依し、57年に親戚の呼び寄せで渡伯した。
 商売の傍ら、私塾で日本語を教え始め、多くの教え子が医者、技師、教師に育ったという。渡伯5年目に妻美津子さんを脳溢血で亡くし、72年に千寿さんと再婚した。79年にピラール・ド・スル日本語学校に教師として就任し、夫婦で教壇に立った。厳しい躾で有名だった。「夫が授業を始めた時、生徒は27人だけだったが、2、3カ月後には70人に増え、人手が足りないからって、私も教えることになりました」と降り返る。83年に仲間と研究会を立ち上げた。「教え方がよく分からないから、みんなで勉強しようって」。
 89年1月7日に昭和天皇が崩御された時、博さんは当地奉悼会で大喪にあたり「日系人としての誇りをもってブラジルに住み、日本の伝統を子供に伝えるべし」と説いた。90年に博さんは白血病で亡くなった。冒頭の言葉は、その時のものだ。享年71歳。翌91年から千寿さんはサンパウロ市の西本願寺の日本語学校に移り、以来20年も教えている。
 「父はいつも教え子の特攻隊員のことが頭から離れなかったが、教師は自分の天職だとも言っていた。聖南西で日系人の教育に全力投球でき、父は幸せだったと思います」と三女の川畑武美さん(60)はしみじみと感謝した。