日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (24)=抹消された輪湖俊午郎=「何を残そうとしたか」

ニッケイ新聞 2013年8月14日

輪湖俊午郎(『日々新たなりき ある拓人の生涯』同刊行委員会、1966年より)

輪湖俊午郎(『日々新たなりき ある拓人の生涯』同刊行委員会、1966年より)

 移民史において「何が書かれなかったか」と「何を残そうとしたか」はコインの裏表だ。『70年史』を逆読みすることで、隠そうとした〃何か〃が行間に浮かびあがってくるのではないか。
 『ブラジルに於ける日本人発展史』は上下巻とも青柳郁太郎が編纂委員長を務め、主な執筆者は野田良治(戦前の駐伯外交官)、輪湖俊午郎(『伯剌西爾時報』の元編集長)らであり、戦前の日本政府側の意向を強く汲んだ内容であり、その筋が「残したかった」事柄が結晶している。
 それに対し『70年史』『80年史』の頃は、勝ち負け紛争の余韻が強く残っており、勝ち組を刺激するような内容は極力避けつつ、当時のコロニアの権威筋である〃御三家〃である「文協、コチア、南米銀行」や総領事館が良しとすることを載せ、気に入らない内容は極力排除する雰囲気が濃厚にあっただろう。
 この背景から、南銀の前身「ブラ拓」に関係して、わざわざ「ブラ拓の出現」(96〜98頁)という一節を割くなど、『ブラジル拓殖組合』の記述は多い。この「ブラ拓」は「ブラジル拓殖組合」のことで、イグアッペ植民地を作った「伯剌西爾拓殖会社」とはまったく別物だ。
 同様に、日系社会はあたかも文協から始まったかのように山本喜誉司を高く持ち上げ、コチア産組に関しても良い面のみ『70年史』では取り上げている。
 レジストロ関連で言えば、「海興」の記述は極力省いて、「ブラ拓」の方を積極的に歴史に残そうとした傾向が伺える。これは一体なぜか——。
 そんな疑問が湧いた時、木村快(演劇NPO『現代座』演出家、アリアンサ郷土史研究家)が輪湖俊午郎に関係した50人ほどを徹底的に調べた内容を記した『輪湖俊午郎の生涯』(自家製本、2007年8月)を読んで、「目からウロコ」のような感覚を覚えた。輪湖は初期のセッチ・バーラス植民地に入植するなどレジストロ地方に縁の深い人物だ。
 輪湖は北米から転住し、当地邦人初の邦字紙『週刊南米』を手伝い、日伯新聞創立に関わり、『伯剌西爾時報』初代編集長を務め、『のろえすて年鑑』『バウルー管内の邦人』『ブラジルに於ける日本人発展史』(共著)など重要な著作に加え、アリアンサ移住地の企画建設、海外組合連合会時代からの移住事業にも深く関わった。
 木村快はこのような輪湖を「はじめに」の中で、《おそらくブラジル移住にもっとも深く関わった人物と言っていい。だが、なぜか輪湖俊午郎の名はブラジル日系社会で刊行されたブラジル移住史をはじめ、日本における数々の移住文献にもまったく触れられていない。その原因は、ブラジル日系社会の土台を築いたと言われる海外移住組合連合会の歴史が、戦前、意図的に歪曲または抹消されたまま現在に至っているためと思われる。このことは国策移住の実態がやがて歴史の闇に消えていくことを意味しているようにも思われる》と問題提起をしている。
 これを読んで、「輪湖が抹消された」というよりは「輪湖が深く絡んだブラ拓」以前の「移植民送出しの歴史」全体が、戦後60年代以降に抹消されたのではないかと思い至った。
 つまり、桂植民地から始まり、青柳郁太郎、イグアッペ植民地、海興、海外移住組合連合会、輪湖俊午郎などに連なる戦前の重要な部分が、過小評価された形でしか戦後書かれた正史に記録されていない。
 こればかりではなく、イグアッペ植民地創設にに関しては、色々な関連事項がいまだ闇の中に埋もれているようだ。それらの原因を推測することは、実は「日本移植民史」全体に関わる重要な部分に光を当てることになるのではないか。(つづく、深沢正雪記者)