第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(66)

ニッケイ新聞 2013年8月15日

 当時、バストス産組の経営は、危機に在った。
 戦時中、繭(まゆ)の市況が高騰したため、蚕種に対する需要が急増、組合は蚕種製造所を、サンパウロ州銀から融資を受けて建設した。    
 この時、州政府(蚕糸産業部門)の要求する条件に合う製造所をつくることになり、資金が嵩んだ。州銀からの借入金も大きなモノとなった。 
 が、その稼働開始時、戦争が終わり、蚕種の需要が激減、価格も暴落した。これで資金繰りが狂い、借入金の返済ができなくなった。     
 組合経営の実権は、戦前から──戦中も含めて──溝部幾太が握っていた。         
 溝部は、危機を乗り切るため必死となった。組合員に対する延滞債権をきびしく取り立てた。一方で、蚕種の製造を極端に縮小、従業員も解雇しようとした。     
 すると、従業員の中から溝部排斥運動が起こった。自分たちをクビにするなら、まず経営責任者たる溝部自身が腹を切るべきだ、というのである。         
 溝部は、その不穏分子5人を馘首した。これを不満とした他の従業員11人が続々と辞表を出し、更に女子部にも共鳴者が現れ、紛糾した。 
 その渦中での溝部射殺であり、やったのは、馘首された一人だ──と、いうのである。    
 その従業員は、肺を病んでおり、普段から鬱々(うつうつ)としていた。一方、溝部の解雇の仕方は荒っぽかった。従業員たちが、いつもの様に出勤してくると、彼らの机と椅子が(何処かに片付けられて)無くなっている……というやり方だった。       
 馘首された(肺を病んでいた)従業員は、これで精神的におかしくなってしまった。     
 彼は後に、友人に「溝部をヤッたのは、自分だ」と告白した。   
 溝部に関する会計上の問題も洩らしていた。溝部が、サンパウロ出張後の経費精算の折、支出分のレシーボの中に、料亭のモノがあった。その従業員が「これは、どうしましょうか?」と咎めるように訊くと、溝部が「そんなもの、どうとでもしておけ!」と怒鳴ったというのである。  
 ちなみに、バストス産組は、結局、倒産し、後に再建された。    
           
 溝部事件に関しては、この他「襲撃者は山崎ほか数名」と記す資料もある。         
「山崎は三月二十八日、ガルサで、溝部に天誅を加えたのは自分だ、と口にした。(それを耳にした)刑事が急行したが、逃走後であった」   
 という。      
 山崎がどういう人間で動機が何であったのか……の説明はない。   
 また、前出のマリリアの西川武夫は、溝部の家族から聞いた話として、こう記している。   
「銃声に家人が飛び出した時、犯人三、五人が馬で逃走した、と以上は、私が三月十三日弔問した時、家人から聞いた状況である」       
 これであると、襲撃者は複数である。    
 もし、右の異説のいずれかが事実とすれば、山本悟は何故、一人自首したのか……ということになる。        
 その山本は受刑・出所後、かなり経ってから、溝部襲撃者として、日本から来た記者やテレビの取材班と会っている。 
 筆者は、その記事やドキュメンタリー作品の一部を、読み観たが、山本が動機や経緯を明確に話していないことが気になった。「溝部は本当に悪い奴ですよ。自分がやらなくとも誰かがやったでしょう」とか「戦争が悪かった」としか言っていない。(山本は、その後、没)       
 ともかく色々な説があって、厄介な事件である。が、これ以上に関しては、現在の処、不明である。        
 なお、臣道連盟との関係については、本稿の大分先の方になるが、「遠ざかる臣連の影」その他の項で触れる。溝部事件以後に起きたケースについても、同じである。(つづく)