日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (27)=回り始めた〝巨大な歯車〟=「見てはいけない事件」か

ニッケイ新聞 2013年8月17日

ラモス移住地の「平和の塔」

ラモス移住地の「平和の塔」。同地はコンテスタード戦争の主要な戦場となったカッサドール近くに位置する。日本移民にとっては「原爆撲滅、世界平和」を願う塔だが、地域のブラジル人にとってはむしろ血塗られた先祖の歴史を振り返る場かも知れない

 南大河州では1835年から1845年まで「ファラッポスの戦い」が起き、ブラジル帝国に対して「リオ・グランデ共和国」独立を宣言した土地柄だと連載18回で紹介した。加えて笠戸丸の10年余り前にも、同州では連邦主義者革命(1893—1895)が起きていた。
 同時期には北東伯バイーア州奥地セルトンの「カヌードスの乱」(1893—1897)も起き、中央政府は股裂き状態の中で兵力を派遣し尽くして疲弊していた。そこへ「コンテスタード戦争」が勃発した。南米大陸の半分を占める広大な国土に人口が増えて社会格差が広がり、辺境部で自主独立を求めた分裂、内乱が起きていた。
 青柳が南部3州を調査したのは1910年9月から18カ月間。そして東京シンジケートは1912(明治45)年3月8月にサンパウロ州政府と官有地の無償払い下げ契約を結んだ。『コンテスタード戦争』(1912年10月〜1916年8月)が起きたのは、まさにその年の10月だった。
 青柳が視察旅行の中で、欧州移民や北米企業家によって急速に発展するに違いないと感じた勢いは、ブラジル政府からすれば逆に〃不穏な内乱の気運〃だったようだ。
 青柳が『時事新報』に連載を書いたのが1912(明治45)年の7〜8月、11月には東京商業会議所で「南米拓殖発起会」が開かれ、12月には第3次桂内閣が発足し、桂首相兼外相は1913年1月に外相公邸へ渋沢栄一、高橋是清らを召集して「伯剌西爾拓殖株式会社」の創立委員会を作っていた。
 青柳がどの時点で同戦争の情報を得たのか分からないが、政府筋に近い彼だけに、かなり早い時点で公使館から知らされていたに違いない。
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 サンパウロ州政府が東京シンジケートに5万町歩の土地を無償譲与し、4年以内に2千家族を定住させるというレジストロの大規模開発計画が進む様子を横目で見ていたイグアッペ郡長アントニオ・ジェレミアス(Antonio Jeremias Muniz Junior、任期1908〜1914年)は、同郡ジボプラにある約1400町歩の私有地を郡が買取り、伯剌西爾拓殖会社に無償提供する議を可決した。
 青柳は《イグアペ郡会議長》とジェレミアスの肩書きを記しているが、正しくは郡長(Prefeito)だ。土地提供を申し出た理由として、上流のレジストロ中心に発展が進むことを恐れたイグアッペが、置き去りにされないようにと中間地点に楔を打った、と青柳は認識していた(『発展史』下、14頁)。
 でも当時の現地側の状況を俯瞰してみれば、同郡長は、内戦状態だったコンテスタード地方(サンタカタリーナ州とパラナ州境)の状況を知っていたのではないか。〃20世紀最大の内乱〃であり、展開次第では戦線が北上し、近隣地域に社会不安が広がる可能性があったはずだ。
 ならば、郡が《楔》を打ち込もうとしたのは、伯剌西爾拓殖会社が内戦の状況を危険視し、土地区分問題の解決が遅れたことにしびれを切らせ、候補地を別の地域に替えたり、撤退する事態に対してではなかったか。
 しかし、首相兼外相以下、財界人らが創立委員会をしたばかりの時に、「撤退」「候補地を替える」という選択肢は果たして残っていたか——。「今さら候補地を替える」とは言い出せないところまで、明治日本の政府筋という〃巨大な歯車〃は動き始めていたのではないか。ならば、なかったことにするしかない——そんな判断があったかもしれない。
 青柳がイグアッペ植民地開設を30頁もかけて詳述した『発展史』(下)では、同戦争にまったく触れていない。近隣州で起きたブラジル史に残る大きな戦争は、まるで原発事故の最初のように「あってはいけない事態」「見てはいけない事件」のように扱われ、見事に移民史からぬぐい去られた。(つづく、深沢正雪記者)