日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (28)=〃バガブンド〃が先駆者に=「失敗したら次はない」

ニッケイ新聞 2013年8月20日

柳沢ジョアキンの父・喜四郎さんのサトウキビ畑での家族写真『二十周年写真帳』(安中安次郎、32頁)

柳沢ジョアキンの父・喜四郎さんのサトウキビ畑での家族写真『二十周年写真帳』(安中安次郎、32頁)

 桂植民地は当初から予定されたものでなく、時の隣接州の内乱とレジストロ地方開発の大きな勢いに巻き込まれるような形で、郡長からの提案で後から追加され、結果的に「最初」となった。「植民地の試験場」として、ここでの経験が後に影響を与えていった。
 植民事業の影の立役者だった桂太郎首相が1913年10月10日に病没したことを受け、顕彰するために「ジボブラ植民地」の名を、イグアッペ郡議会の承認をえて1914年1月から「桂植民地」と改名した。
 日本の陸軍大将・首相の名前を地名にするなど、〃黄禍論〃の北米ではありえない対応であった。青柳は意気揚々と、日本に報告したに違いない。
 桂植民地入植者の受け入れ態勢を作るために、青柳自らが現地取締役としてイグアッペに事務所をかまえたのが1913年だ。その頃の町の様子を描写した文章がある。《このイグアペ市も帝政時代、相当繁昌せる都会なりしことは、現在の偉大なる天主教会堂および、所々に散在する大邸宅の廃墟に依るも容易に想像されるが、奴隷廃止後、大地主達漸く他に移動し、今やすつかり荒れて住民も少く、営業としてはわずかに二、三の小精米場と種々の雑貸店と二軒の旅人宿あるのみだ。その頃は未だ電気も無く、所謂市街区域には牛がぞろ〜歩いてゐて、夜はうつかり散歩も出来ない。牛に突き当る恐れがあるからだ》(『発展史』下、16頁)という状態だった。
 その70年前にはポルトガル副領事館が置かれ、新聞も発行され、欧州の劇団が公演した《南伯の主要都市の一つ》だった姿は過去のものとなり、寂れていた。
 笠戸丸からわずか5年、1913年目に桂植民地は創設され、その年の11月9日に最初の約30家族が入植した。このように急きょ設置された経緯もあって、桂植民地への最初の入植者には、まったく当地無経験の日本直来者より、当地での農業経験者が優先された。
 ところが州内ファゼンダで探したが希望者は驚くほどいなかった。《募集に当り、最も意外なりしは、サンパウロ州に於いて既に数年の耕地生活を経た先着移民までが、尚出稼ぎの夢より覚めず、土着自営の考へなきことであった。こうした事情から奥地に於ける純農の募集は全く失敗に終わらざるを得なかったので、仕方なく方向を変え、サンパウロ市内のコンデ街で募集した》(『発展史』下、15頁)
 最初の日本人街、サンパウロ市セントロのコンデ・デ・サルゼーダス街で希望者を募り、ようやく28家族を集めた。彼らは、元々コーヒー耕地からの脱耕者や、機械職工、大工、左官、商人だった。半田知雄著『日本移民の生活の歴史』(70年、人文研、347頁、以下『生活の歴史』)によれば、彼らは〃コンデのバガブンド(放浪者)〃と呼ばれていたとある。それゆえに大工が多く、後にレジストロ地方には独自の移民建築文化が生まれることになる。
 万が一にもこれら入植者が短期間で脱耕することがあれば、後に続く本来の植民事業が挫折するのではと会社は恐れた。わずか30家族の入植地造成なのに、農業技師の藤田克己、医師の北島研三、土木測量技師の大野長一、野村秀吉、三浦源三郎らを先着させ、万全の努力を払った。
 小さな桂植民地には精米所、診療所、商店、郵便局、学校、製材所、ピンガ蒸留所など色々な施設が整っていたので、イグアッペの町からわざわざ用を足しにいく住民がいたほどだった。その商店には町より安くて、多彩な商品が並んでいた。
 青柳からすれば「この30家族が万が一、失敗したら次はない」——そんな〃背水の陣〃の心境だったに違いない。(つづく、深沢正雪記者)