連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第144回  

 

ニッケイ新聞 2013年8月23日

 

 部屋は日本の病室に比べるとはるかに広かったが、小宮は部屋に入れず、三階のエレベーター前の待合室で待機するように言われた。
 五分もしないで叫子は分娩用の衣服に着替え、ストレッチャーで運ばれてきた。分娩室は四階で、エレベーターのドアが開くまでマリアが付き添いながら、叫子の手を握っていた。
「大丈夫、心配ないから。ずっとここにいるから」
 マリアが声をかけながら見送った。小宮は何を言って励ませばいいのか、口ごもっている間にエレベーターのドアは閉まった。
「これから分娩室に入るから、私たちはここで待ちましょう」
 マリアは椅子に座ると、地蔵のように動こうとしない。しかし、小宮の方は気が気ではなく、時計を見たり、立ち上がって窓際に行って外を見たり、じっとしていることができなかった。
「少し落ち着きなさい。叫子の体はちょっとやそっとのことでは壊れはしないよ。丈夫な体をしている。私にはわかるんだ」
 マリアが何を根拠にそう言っているのかわからない。五人の子を産み育ててきたマリアの直感なのだろうが、小宮には何の励ましにもならなかった。ブラジルの医療が日本と比べてどれくらいの水準にあるのかもわからずに、小宮の不安と焦りは増すばかりだった。
 これほど時間が経つのを長いと感じことはなかった。粘着性の油が一滴一滴したたり落ちるような時間だ。
 辺りが暗くなり始めた頃、エレベーターが止まり、中からストレッチャーが運び出されてきた。
 疲れ切った表情の叫子が乗せられていた。叫子は小宮の顔を見ると微笑んだ。無事に出産したことを悟った。
「男の子だった」叫子が言った。
 日本語がわからずにマリアが尋ねた。「メニーノ(男子) オウ メニーナ(女子)」
「メニーノ」
「パラベンス(おめでとう)」
 マリアが叫子の頬にキスをした。
 ストレッチャーは病室に入ったが、マリアと小宮は看護師に案内され、病室の先にある新生児室に導かれた。廊下に接する側が大きな窓で、その前で待つように言われた。
「今、赤ちゃんをお父さんとおばあちゃんに会わせます」
 内側から白いカーテンが引かれ、内部の様子は見えない。
 すぐにカーテンが開き、ベビーベッドに何人もの新生児が寝かされていた。案内してくれた看護師が新生児を抱きかかえながら窓際に寄ってきた。防音ガラスで内部の音は聞こえない。
 新生児は専用のエレベーターで先に部屋に運ばれていたようだ。
 看護師が子供を小宮とマリアに見えるように、あやしながら抱きかかえた。
「ボニチーニョ(かわいい)」マリアが自分の孫を見るような眼差しを向けた。
 子供は目をつむり、静かに眠っている様子だった。小宮は防音ガラスに額を付けて我が子を見つめた。浅黒い肌をしている。目元と鼻はどことなく叫子に似ているような気がした。口元は小宮にそっくりだった。同じことをマリアも感じたらしい。
「口元はパパイに似ている」
 看護師が子供をベッドに戻そうとした時、廊下を走ってくる音が聞こえた。パウロだった。
「生まれたか?」
「お前も早く来てごらん」
 パウロも防音ガラスに額を付けて子供を見た。
「かわいいモレーノだな」
「シェッフェ、名前はもう考えたのか」
 まだ何も考えてはいなかった。ただ自分の名前のような命名の仕方は絶対にしたくはないと常々叫子は言っていた。
「沢田ママが付けてくれた名前だけど、東駅叫子という名前にはソルチ(運)がないから」
 叫子から何度も聞かされていた。
 マリアに聞いていた通り、叫子は三日入院しただけで退院してきた。母体に悪影響を及ぼすのではないかと小宮は不安に思ったが、他の妊婦も三日で退院しているようだ。(つづく)

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