日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年◇戦前編◇ (32)=リベイラ沿岸の神様・北島=平野、上塚植民地創設の素因

ニッケイ新聞 2013年8月24日

「リベイラ沿岸の神様」とまでいわれた北島研三医師(『二十周年写真帳』安中末次郎)

「リベイラ沿岸の神様」とまでいわれた北島研三医師(『二十周年写真帳』安中末次郎)

 西館正和は「父はこちらに来るまで百姓なんてしたことがない人でした」。父繁太郎は元々、軍師団の戦死者の霊を祀る、靖国神社から分祀をした旭川招魂社の管理人をしていたという。
 「1933年にジポブラに入った。ちょうど20周年だった」。西舘は日本で小学3年を終えて4年に入ったところで渡伯した。当地ではブラジル学校に1年半行ったが、兄が死んで辞めた。
 西館「僕は日本を出るときには兄貴が二人おって、三男坊としてきた。弟、妹はジポブラで生まれた」。でも、桂に移って小作している2年目に次男が病気で死んだ。「なんの病気か分からない。あの頃はなんの病気かも気にしなかったな。医者の代わりをしていた高野留七(薬剤師)に見てもらったが、わずか14歳で死んだ。
 最初の医師・北島研三(1870—1923、福井県坂井郡)の頃、当地は外国人でも医師資格を問われない時代だった。しかもリベイラ沿岸唯一の医師であり、貴重な存在だった。
 北島は東京の築地英学校(明治学院の前身)に入学、近衛兵第一連隊に入隊、名古屋愛知医学専門学校に入り、日清戦争に応集された。北清事変、日露戦争では日本赤十字船に乗って医療活動に従事した。《1900年、北清事変の際、多数のフランス国傷兵の治療の功績によりフランス政府から、ラオイシャ・デ・アカデミー四等章を受賞した。日露戦争においては本院外科部医師として活躍し、勲五等旭日章を受ける》という輝かしい経歴を持つ。
 1908年に日本赤十字社を退社、1913年に伯剌西爾拓殖会社に入社し、その年の5月から渡伯赴任した。桂とレジストロ植民地で社医として、分け隔てなくブラジル人にも医療活動をし「リベイラ沿岸の神様」といわれた。
 1923年、ジュキア線一帯にマラリアが大流行した際、助手を連れて救援に赴くが、必死の医療活動の中で自身もマラリアに感染してしまい、同年9月にレジストロの自宅で永眠した。
 『今日のブラジル』(八重野松男、ジャパン・タイムス社、1929年)にもレジストロ地方入植者の特徴として、サンパウロ州内陸部に入ったコロノが徒手空拳だったのに対し、こちらは日本で土地購入契約をしてくるから資金がある家で、結果的に《割合知識階級が多い》とする。さらに日露戦争従軍者の入植者の中でも予備海軍機関・石田常太郎の名を挙げた。《同氏は日露戦争の時、旅順港閉塞の決死隊に加わった勇士にして、氏が渡伯の動機は日本の役人が口には、海外発展を推薦しながらも、自らは少しも実行しないのを憤慨して、進んでその範を垂れるべく渡伯したとのことで、現在も朝は早く夜は遅くまで鍬鋤を友として奮闘しておられる》(591頁)
  ☆   ☆
 『先駆者傳』(6頁)にも桂に関して《最初の入植者は初め賃金労働制とせしも、後には十五町歩を無償提供し、住宅を與え、生産物の二割五分を會社に納入する分益農組織とした。この集団自作農制度の成功は、在伯邦人を刺激し、平野、上塚等の植民地創設の素因をなしたものである》と高く評価されている。
 ところが、桂の次の肝心のレジストロ植民地には深町信一、国行卯一ら国内転入組が1914年9月に入植したが、本格的入植開始といえる日本直来者19家族が来るのは、なんと4年後の1917(大正6)年を待たなければならなかった。
 直来者が来るまでの間にサンパウロ州各地で植民地が生まれていた。当初の計画にはなかった桂だが、結果的にこのおかげでイグアッペ全体が〃最初の植民地〃という名称を得た。(つづく、深沢正雪記者)