日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (36)=排日の北米見限った輪湖=「土地のない所根張れず」

ニッケイ新聞 2013年8月31日

北米時代の若き輪湖

北米時代の若き輪湖(『日々新たなりき』追悼記刊行委員会、帝国書院、67年、グラビア)

 第一次世界大戦は日本移民導入に決定的な役割を果たした。日用品生産すら支障が生じた欧州に向けて1915年から食糧品、生活物資輸出が大幅に増え、サンパウロ市の工業地帯は活況を呈した。労働者は長時間労働を強いられ、必需品すら輸出したので物価が高騰した。
 1914〜23年の間に賃金は71%しか上昇しなかったが、物価はなんと189%も上がった結果、購買能力は3分の2まで落ちた(ウィキGreve Geral de 1917)。その状況の中でゼネストが始まり、それに連動しない労働力として日本移民に目が付けられた。
 つまり、南部で閉鎖的共同体を作るドイツ移民も頭痛の種、工場でストライキをするイタリア移民にも手を焼いた時期に、日本移民は入れられた。杉村濬公使や水野龍が公言していたように日露戦争勝利を歓迎して導入された訳ではなかった。
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 レジストロ地方に込められた期待の大きさからか、次々と遠くから人材が集まり始めていた。
 その一人が輪湖俊午郎(1880—1965)だ。長野県安曇野に生まれ、キリスト教への関心を深め、15歳にして1906年に英文学研究の目的で渡米、受洗して苦学し、邦字紙『ロッキー時報』で文選工(活字を拾う職人)や記者、カリフォルニア州で果実採取人、鉄道鉱夫、炭鉱夫までやって、北米に〃約束の地〃を求めた。
 ところが日露戦争後に黄禍論や排日運動が起こり、1913年にカリフォルニア議会が排日法案を承認するまでに発展した。当時彼が住んでいたユタ州はモルモン教の本城であり、北米内では邪教的扱いをされていた反動で、日本人にはむしろ好意的だった。ところが、そのですら日本人の土地所有が禁じられた。
 輪湖はブラジルに転住するまでの顛末を『流転の跡』(1941年1月、以下『流転』)の中で、こう記す。《土地のない所にどうして根を張ることが出来やうか、人間は例へ如何なる厭迫を加へられても土にさへ離れず居たなら、生命は枯れることがない。人間から土地を奪ふと言う権利が抑も人間に許されるのであらうか。けしからぬ北米人であると憤慨しては見たものの只それだけに過ぎなかった。この悪法の通過以来、彼(=輪湖)は矢も盾もたまらず亜米利加が嫌になり、兎も角此の国を退去と決し〜》(2〜3頁)。排日法が若き輪湖の運命を決した。
 そんな時に雑誌『実業之日本』の記事を読んだ。《或るとき偶然開いた其の頁に、驚くべき報道が掲載されて居た。それは青柳郁太郎と言ふ人が南米ブラジルに於けるサンパウロ州政府と植民契約をなし、イグアツペ郡内に五萬町歩の土地を無償で払下げ、これに二千家族の日本人を入れると言ふ事と、更に州政府は是等日本植民に定着後渡航費の全額補助をするの外、盛り沢山な助成方法を伝えた吉報であった》(『流転』3頁)。
 劇的なレジストロ地方との出会いだった。ちょうど百年前、1913年12月にニューヨーク港から英国船でリオに渡った。思春期の8年弱を過ごした北米を去る心境を、次のような感傷的な情景描写で描いている。
 《ブルツクリンの橋から望んだ紐育の海は、丁度ヴェールを通して見る様であったが、時には忽ち襲ひ来る白霞の為全く視界を奪はれ、船舶の汽笛のみ喧しかったと見れば、又忽ちにして濃霧は海面を拭ひ去られ、其の處に数知れぬ大小の汽船が或は浮かび、或は動いているのであった。其の午後二時、ブルツクリンの波止場を出帆する南米行きの英国汽船があった》(『流転』49頁)
 ブラジルにこそ〃約束の地〃がある——そう確信して北米から転住した当時の輪湖は、まだ23歳だった。(つづく、深沢正雪記者)