日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (37)=いよいよ本格入植開始=〃原住民〃のような先発隊

ニッケイ新聞 2013年9月3日

第1植民団の一人、野村隆輔夫妻

第1植民団の一人、野村隆輔夫妻(『在伯日本人先駆者伝』パ紙、1955年、535頁)

 青柳構想に夢を抱いて南米転住を図った輪湖だったが、最初からレジストロ地方に入植した訳ではなかった。『ロッキー時報』での経験を買われ、南米初の邦字紙『週刊南米』(1916年1月)の創刊をサンパウロ市で手伝った。その創立者・星名謙一郎もまたハワイ、北米本土から転住してきた新教徒であった。続いて同年8月から金子保三郎と共に『日伯新聞』(1919年から三浦鑿社長)を創刊した。この先発2紙ともが手厳しい移民会社批判が売りだった。[/dropcap]
 1914年1月にサンパウロ州政府が日本移民への渡航費補助を突然辞め、事実上、移住が止まったことを第34回で説明した。その事態に際して、移民会社3社が生き残るために1916年に合併して「伯剌西爾移民組合」が生れた。この会社は設立経緯からして、もともと営利志向が強かった。先発2紙の傾向を見て、同組合の神谷忠雄社長は危機感を持ち、移民会社側の意見を代弁する〃御用新聞〃の必要性を痛感した。そこで北米から新聞経験者の黒石清作を「移民教育部長」の肩書きで呼びよせ、他紙にはなかった活字や印刷機までを買い揃えて準備した。
 第一次大戦の余波でようやくサンパウロ州政府の渡航費補助が再開され、復活後初の「若狭丸」が1917(大正6)6月にサントスに着いた時、黒石清作、高岡専太郎医師も乗っていた。そして同年8月31日の天長節を期して『伯剌西爾時報』が創刊し、時の総領事の強い薦めで輪湖が編集長を務めた。そのように輪湖は「官側」から有能な人材と認められる性向があり、邦字紙黎明期の大立役者で、その立場から大局的かつ系統的に移民史を見ていた人物といえる。
 『時報』創刊の直前、同年8月27日にようやく「レジストロ植民地」へ日本直来者がきた。草分け時代を記した『思い出の記』(野村隆輔、1969年)によれば、第1植民団19家族を載せた「しゃとる丸」の輸送監督が白鳥堯助、野村がその助手だった。笠戸丸移民にして〃本門佛立宗ブラジル〃茨木日水上人(本名=友次郎)の弟・茨木伸次郎や、長野県人では松村栄治や久保田安雄、山村滋治ら家族がいた。その他、当時四十歳余りだった小笠原尚衛(のちに星名とブレジョン植民地建設)ら5、6人の便乗者も同船した。
 まずサントスで1泊、薪をたく軽鉄でジュキア駅について1泊、外輪船でようやく植民地まで近づいたとき、現地で受け入れ準備をしていた青柳と原田技師長が会社専用のモータボート「かもめ号」に「伯剌西爾拓殖会社」(東京シンジケートの後進で、伯剌西爾移民組合とは別物)の旗を翻して出迎えた。第1回植民団はそれに応じて、イグアッペ植民地の歌を合唱した。《あの劇的な場面は数十年後の今日でもハッキリ胸に浮かんでくる》(3頁)。到着日はちょうどブラジル独立記念日の9月7日だった。
 出迎えに波止場に現れた先発隊の姿をみて、野村は《真黒に日に焼けてひげボウボウとして、一度も磨いた事のない様な革の長靴を履いている格好は珍無類で、しも我々の同胞とか先輩と云う感じは出ず、原住民族の様にしか見えなかった。世界大戦のために後続部隊の来伯が一時絶えたので、退化したのではないかと想像した。(中略)われわれも早晩猿に退化するのではないかと着植第1番に感ぜられた悲哀であった》と書く。
 《入植当時の生活は土人の生活と何等変る処のない原始的な生活であった。植民者の住宅は大体掘立小屋で、勿論土間で、周囲の壁は椰子の一種でジュサラ(中略)食べ物は干肉、米、豆、木芋粉等で、パルミットの芯が野菜代わりであった》(6頁)。野村が見たのはそんな〃原住民〃さながらの先発隊の姿だった。(つづく、深沢正雪記者)