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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (45)=米騒動と米作移民の関係=青柳の密約「珈琲禁止」?

ニッケイ新聞 2013年9月13日

米国ヒューストン・クロニクル紙の「テキサスの偉人達」に紹介された西原清東

米国ヒューストン・クロニクル紙の「テキサスの偉人達」に紹介された西原清東

 1918年当時、米の安定供給は日本の生命線であった。戦争気運と共に米価が上昇する祖国の時代情勢は、日本移植民にどんな影響を与えたのか。実はこの当時、伯国にはすでに米作自作農がかなりいた。つまり「〃金のなる木〃珈琲」のあるブラジルで、多くの日本人はせっせと米を作ろうとしていた。
 1913(大正2)年には三角ミナスの《リオ・グランデ沿岸に数百家族の借地或いは耕作者が盛んに米作を行い〜》(『発展史』下、162頁)とある。それが発展して1919年10月には、このコンキスタの米作者350家族が集まり日系初の組合「日伯産業組合」まで作られた(『風狂の記者』233頁)。
 1915年に始まった東京植民地でも米作が盛んに行われ、伯剌西爾拓殖株式会社社員の長谷川武が同志6人を引き連れて、1915年に邦人が初パラナ州入りをしたアントニーナでも米作が試みられた。1915年から開拓が始まった平野植民地では皆が米作に関心をもって川沿いに家を作り、マラリアの病魔に侵されて入植1年目に80人が亡くなる悲劇を招いていたことは有名だ。
 そんな中、米騒動の前年、輪湖に続くように北米から鳴り物入りで西原清東(1861—1939、高知)も1917年8月にブラジルへ乗り込んできた。板垣退助の立志学舎で学んで1898(明治31)年に史上最年少国会議員、1899年に同志社社長となった挙げた輝かしい経歴を捨てて1903年に渡米した。テキサスで大農場を開いて〃ライス・キング〃(稲作王)と呼ばれたが、そこを息子に任せて渡伯したという。
 ちなみに〃移民の草分け〃鈴木貞次郎(南樹)の兄曽五郎は札幌農学校に通っていたが、その同窓生にはの志賀重昻や内村鑑三もいた。《そんな関係から小学校生徒時代から兄が、夏休みにもって帰るキリスト教の聖書、北米の農業などを書いた本を読んで心ひそかに広漠たる北米の天地にあこがれていたので、西原清東の壮挙に羨望と尊敬の念を禁じえなかった》(『風狂の記者』204頁)とある。
 西原は《排日気運のなかブラジルに一大日本人集団地建設を構想して一九一七年にブラジルに転住、サンパウロで甘蔗栽培、アマゾンでも米作を試みるが、いずれも挫折。一四年間ブラジルで模索を続けたが、一九三二年に帰国》(『風狂の記者』202頁)という結果に終わった。39年に米国で亡くなった。
  ☆    ☆
 この米作傾向の主導的な存在がイグアッペのようだ。しかも伯剌西爾拓殖会社時代には、驚くことにコーヒー栽培が禁止され、営利的な海興になってからようやく解禁されたとの話まである。
 半田知雄はイグアッペに関し《1923年までは、会社の方針としてコーヒー栽培者に対しては入植を許さないことにしていたということは、政府との取り決め(口約)もあったからではないかと思う。むろん、とりかわされた契約条文ではなく、そのことには全然触れていない》(『生活の歴史』361頁)と書く。
 青柳に無償で土地を譲渡した聖州政府側、当時州議会の中心はパウリスタ共和党(PRP)であり、コーヒー大農場主が中心の政党だった。聖州政府が何よりも必要としたのは、あくまでコーヒー園労働者だった。自分たちの競争者になりそうな人物に土地を無償で与えることはありえない。外国移民に無償で土地を与える特別待遇と引き換えに、青柳が米などの食糧生産に限定した密約を結んだとしても不思議はない。
 笠戸丸が来た二十世紀初頭の10年間において、伯国は世界のコーヒー総生産の4分の3を生産する大国で、外貨収入の90%をコーヒー輸出にたよっていた時代だった。(つづく、深沢正雪記者)

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