第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(78)  

 

ニッケイ新聞 2013年9月14日

 

 『拘留報告記』の執筆者が、オールデン・ポリチカで尋問を受けたのは、拘引後26日目であった。
 尋問は、臣道連盟の内容、戦争の勝敗、四月一日事件などについてであった。執筆者は、始めは連盟を擁護する供述をしたが、書記は、これをタイプしようとしなかった。それで、以後、答えは端折った。
 尋問は30分位で終わった。が、書記は供述の3分の1も記録していなかった。さらに30分くらいして、前の記録は間違っていたからタイプし直したと言って、新しい書類を出して署名を要求した。一見して不利な事項を書き加えてあると見たが、この書類によって起訴になっても構わぬ、と覚悟して署名した。
 書記は、他の被留置者に対しても、供述書の内容を読み聞かせることなしに、署名を要求した。殆どの人は、如何なることが記してあるのか、知ることなしに署名した。

 認識派の策動への反感、熾烈

 この拘留報告記の中には、次の様な部分がある。(原文のママ)
 「今回の拘留によって得た結論は敗戦派が如何に策動したか、それに対して彼らへの反感が如何に熾烈に醸成されたか…(略)…私達が四十日に及ぶ拘留中、敗戦派巨頭連が、常に秘密警察課に出入りして居り、その他奥地からは農田水城が出入りしてゐるを見、藤平、森田は秘密警察課長の腰巾着となって居った。
 これら敗戦派は常に課長に入れ智慧し、聯盟を罪に落とし入れんかと懸命の努力をなし、且又、新聞社に金をばら撒き買収し、如何に日本が屈辱的に敗戦しているかを宣伝し、臣道聯盟を恰もテロ団体として一般民衆に認識せしめんと努力したのであり、『ア ノイテ』『フォーリャ ダ ノイテ』『ア ガゼッタ』『ディアリオ デ サンパウロ』各紙は毎日の様に聯盟の名誉を傷つけ、日本人が如何に平和の破壊者であるかの如き不遜記事を掲げた」
 「今回の逮捕は、敗戦祈願派、宮腰、宮坂、古谷、蜂谷、山本、山下、下元、木下、農田水城、藤平、森田、その他及びこれにリードされる地方敗戦派の告発と策動によって行われたことは明瞭である。
 その告発の理由が殺人と殺人未遂にあり、臣道聯盟がこの事件に何等の関係なきに拘わらず、故意に関係あるものとして、悪辣な策謀をめぐらし聯盟を葬ろうとしたのである。
 彼らは敗戦を宣傳するのはまだしも、皇室の尊厳を冒?し奉り国体を傷つけ、抹殺せんとし、日本人として耐え忍び得べからざる言動をなしつつあるのである。
 彼らこそは日本人の敵であり、日本帝国の反逆者である。日本精神と日本人としての理性を失った反逆者達は、今後何をやりだすか判らない。 我々は彼らの行動を厳重に着視せねばならない」
 文中「敗戦派」とは認識派、「敗戦派巨頭連」とは終戦事情伝達趣意書の署名者のことである。「秘密警察課」は、オールデン・ポリチカのSERVICO SECRETOで、秘密という文字を冠しているが、公然と活動していた。「課」「課長」は、班、主任と表現した方が適切な規模で、その主任は、ゼラルド・カルドーゾ・デ・メーロという人物であった。
 「着視」は直視のことであろう。
 この拘留記、内容が、すべて事実であったかどうかは、確認できない。 しかし、こうした文書が書かれたこと自体は、現物が存在する以上、間違いない。
 執筆者は、他の人々に比較、割合早く出所しているが、その後、直ぐ、この手記を書いている。日付は5月20日となっている。
 筆者が見たそれは、謄写版で刷られたパンフレットである。つまりこの拘留報告記は、戦勝派の人々に広く配布された筈である。
 なお、執筆者は、拘引された場所と自分の姓名を記していない。が、これは、警察の手に渡った場合を用心してのことであったろう。(つづく)