第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(80)  

 

ニッケイ新聞 2013年9月18日

 

 不可解な請願書

 以下、サンパウロ及び地方で起きた事件をひっくるめての話だが、すべては状況誤認の連鎖から発生していた。
 最初、邦人社会の殆どが、戦争は日本が勝ったと思った。すると、一部
 の人間がそれを啓蒙すべきである……と、余計なお節介をやいた。しかも臣道連盟をテロ組織と錯覚していた。以後、誤認は連鎖を続け、遂には血を見、戦争状態に発展するほど縺れてしまった。
 この誤認の連鎖は、実はサンパウ州政府執政官や司法大臣、大統領まで巻き込んでいた。それには、一通の請願書から始まった形跡がある。
 話の時期を、一旦、1946年5月まで戻すが、その10日、サンパウロの認識運動の主要人物多数が署名した請願書が大統領、司法大臣(内相兼任)、陸軍大臣、サンパウロ州政府執政官(任命制の首長)に発送された。内容は、「不祥事件の責任者たる徒輩の粛正」
 を求めていた。
 署名欄には、古谷重綱、宮腰千葉太、山本喜誉司、下元健吉らの名が並んでいた。彼らは、既述の終戦事情伝達趣意書の署名者(除、下元)で戦前から邦人社会の指導者でもあった。
 藤平正義、森田芳一ら14人の名もあった。
 不祥事件とは3、4月の襲撃事件のことで、請願書には、
 「これは似而非愛国者の秘密結社の行動であり、この秘密結社は解体されたにも拘わらず、その再建を図る動きがあるので、厳重な処置をとって欲しい」
 と記してあった。
 秘密結社とは臣道連盟を指しているが、実際は、公開団体に切り換えていた。事件との関係も証明されていなかったにも関らず、そう決めつけている。
 終戦事情伝達趣意書の署名者で、邦人社会の指導者でもあった宮坂国人、脇山甚作、蜂谷専一の名が抜けているのもヘンだ。(宮坂には別に事情があったが……)
 蜂谷は後に「認識運動が事態を悪化させた」と語っている。この時点では、すでに、その事に気付いていたのだ。
 何故、この請願書をつくり大統領や閣僚、州政府執政官に送ったのか? どうも不可解な請願書である。
 こういう飛躍した発想をし、かつ行動に移す人間は、署名者たちの顔ぶれを検討すると、藤平正義しかいない。
 以後の展開から推定すると、この請願書は、臣連を完全に葬るための、政府側への根回しを狙ったオールデン・ポリチカと藤平たちの工作であった臭いが強い。 ほかの人々は、頼まれて署名したようだ。藤平の仲間が、請願書を持って署名を貰って歩いたとか、宮坂が断ったという話が、資料類に記されている。
 ともあれ、請願書には日系社会の指導者の名前が並んでいた。大統領以下、軽視することは出来なかったであろう。
 7月10日。カーザ・デ・デテンソンの被拘置者ほか81名が、ウバツーバ沖合のアンシエッタ島の刑務所へ移送された。全員、裁判以前の段階であり、判決を受けての受刑ではない。この場合、この刑務所は、拘置所代わりに使用された。 要注意分子を他の被拘置者から隔離し(出所する彼らを通じて生じる)外部への影響を遮断するためであった。さらに、後述する国外追放処分の準備のためでもあった。
 移送組は大半が臣連の幹部だった。
 隔離の決定者は、事の性格上、州政府の執政官であった筈だ。前記の請願書の影響が窺える。

 執政官も誤認

 7月19日、その執政官が、政庁に州内各地の戦勝派の代表を招き「日本の敗戦を認識、抗争を止める」よう説得した。 400人以上が招集されたが、大半が臣道連盟員であった。
 執政官は今日の知事に当たる。それが、何故、こんな集会を開いたのか判りにくい。が、これも請願書が影響したと見ると、釈然とする。
 しかし、この集会は空回りに終わった。執政官は、社会保安局傘下のオールデン・ポリチカからの報告で、襲撃事件を起こしているのは臣連だと思い込んでおり、それを止めるよう説得した。が、連盟員たちは、その襲撃に心当たりがなかったため、日本の勝敗に関する私見を主張、話はすれ違ってしまったのである。
 執政官も状況を誤認していたのだ。 (つづく)