日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (53)=奥地邦人羨む水郷の暮し=「捨てるぐらい魚あった」

ニッケイ新聞 2013年9月25日

小野さん

小野さん

 1933年にサンパウロ州新報社が刊行した『在伯日本移植民二十五周年記念鑑』(香山六郎)には、レジストロ植民地の環境をうらやむ様子が書かれている。いわく《レヂストロ殖民地がサンパウロ州奥地の他の邦人殖民地より土地は肥沃でなくとも、此の洋々たる淡水河に臨んで居る環境は、サンパウロ州奥地邦人殖民地人には全く羨ましい。殖民生活……殊に日本人殖民生活には「水の流れを見て暮す」……ことが、畢竟万里の殖民の憂鬱心を日常如何に慰藉(いしゃ)している事よ。……水なき殖民は大きくなれぬ意味からしても、レヂストロは恵まれて居る》(153頁)。
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 自然環境には恵まれ、魚は豊富だった。小野一生(かずお、84、二世)は「リベイラ河で取れるマンジューバがむちゃくちゃあった。うちの親父は車に摘んで5部中歩いて回って、20リットルの石油感一杯で2ミルと言っとった。それでも余って道の横に捨てとったぐらい」と振返る。マンジューバを炊いて醤油で味付けしたり、唐揚げにして食べていた。塩振って天日で乾燥して20キロ詰めで箱に入れて随分出荷したという。
 両親が大分県大分市出身で、1924年8月に渡伯した。姉2人日本生まれで、当地に来てから一生らが生まれ、6人兄弟となった。
 父一(はじめ)は「青年の頃からブラジルに憧れ、みんなから『ブラジル』と渾名されるほどだった」という。最初はモジアナ線の珈琲耕地で義務農年を済ませ、1925年にレジストロに入植した。最初の2年はピンガ工場で次の1年は日本人の珈琲農場で働いた。
 一生が生まれた翌年の1929年、「5部の26区に掘っ立て小屋を建てて独立農になった」という。海興は1区画を約12アルケールに区切り、2千の区画を作った。つまり2千家族以上を入れる計画をしていた。
 コーヒーを2アルケールに2千本植えた。33年に初採りのコーヒー園を眺めたその年に、5歳年下の弟(次男)が生まれた。出産の時、難産で母(36歳)に死別した。「高野さんという海興の医者がいたが、母が出産で亡くなったときは町まで10キロもあったからもう手遅れだった」。その時、父は41歳。当時13歳だった姉が主婦の役割をして、下の兄弟の世話を見た。今でもそこに土地を持っている。
 道路は舗装がない時代で、生産物を出荷するのも大変だった。26区には15家族住んでいたが、「みんな弁当持ちで3、6、9、12月に自分たちで道路補修をやった。石を掘って、市役所が出した車に乗せて、道路に巻いて、車が通れるようにした。今の二世、三世からしたら不思議でしょうね。でもあの頃はそれが普通だった。みんな苦労した」。
 さらに「戦前のレジストロはほとんど日本語でことが足りた。まあ日本人しか見当たらないというぐらいの感じだった」と懐かしそうに振返る。
 「父は浄土真宗、西本願寺だった。昔はお寺がなくて、信徒は10家族ぐらい。『慈光会』と名づけて日曜ごとにその家々に父が訪ねて行って仏教の話をしていた。朝晩仏壇で熱心に念仏を唱えていた。夜は必ず、家族みんなで仏壇に祈った。お前に日本語を教えるのは、親鸞上人の御教えを理解させるためだって、父が60歳で死ぬちょっと前、涙ながらに語ってくれたのを覚えている」。父が53年に亡くなった後、56年に土地を寄付する人が出て翌57年にお寺は建立された。
 「両親は最初から定住の気持ちで来ていた。ここに入った人は定住思考の人が多かったと思う。でもここからパラナとかサンパウロ、サントスとか他のところに移転した人も多い。戦争前に一緒に小学校に行った人の半分ぐらいしか残らなかった」。(つづく、深沢正雪記者)