日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (55)=〃珈琲帝国〃に紅茶王国

ニッケイ新聞 2013年9月27日

岡本寅蔵・久江夫妻(パ紙『先駆者伝』より)

岡本寅蔵・久江夫妻(パ紙『先駆者伝』より)

 日本移民の多くは「金のなる木=珈琲」(Ouro Verde)があるとの宣伝文句に乗ってブラジルへやって来たが、不思議なことに「紅茶王国」を作った。
 米作が不振に陥った海興では困難に直面していた。原始林は倒してみたものの米、サトウキビ、マンジョッカなど元々あったもの以外は、何を植えていいものやら皆目見当がつかなかったと71年1月8日付け日毎紙(にちまいし)にある。
 松村昌和も「その当時、適性作物なんてわからないわけですよ。でも海興からは借金の請求がくる…」と初期の様子を説明する。最初から踏み倒そうと思って移住してくるものはいない。借金を返したいが無い袖は触れない。みなが忸怩たる思いだった。
 そんな試行錯誤の中で、ようやく出てきたのが紅茶だった。《要するに岡本氏はレジストロ植民地の更正の偉大なる貢献者である。率直に云えば会社の指導した諸事業は結果より見れば余り効果はなかった(後略)》(野村『思い出』47頁)
 パ紙『先駆者伝』544頁によれば、岡本寅蔵(1893—1981、奈良県)は奈良県山辺郡に生まれ、京都第16師団砲兵第22連隊3中隊3班の獣医部上等兵を除隊後、茶どころ宇治で製茶業の修得に6年専念し、玉露を揉む腕利きになったという。
 岡本は1919(大正8)年に博多丸で26歳の時に渡伯した。《神戸を出る時、青桐の苗木を持って乗船し、この苗木が十年も過ぎて成育の暁には船に満載し紀の国屋文左衛門気取りに故郷に錦をかざれるものと故山を後にした》(『句文集 茶の花』岡本久江、1974年、187頁)とある。同著は岡本の妻が書き記したものだ。
 はるばる地球を半周し、ジュキア線から川蒸気に乗り換え、レジストロに着く直前、《大切に持ちつづけて来た桐の苗木を水に浸さんと、船尾に持ち出した途端に、アッと叫ぶ間も無く手より離れて大切な苗木は水中深くに沈んでいった。其の時のくやしさは言語に尽きなる想いで、目前に希望の陸を見つめて涙した》(『茶の花』188頁)という逸話がある。
 もし落としてなければ、〃桐の岡本〃として知られていたかもしれない。
 最初はレジストロで米作、カンナ栽培をしたが、《土地が痩せ地の上に作物が適さぬらしく、折角の努力も空しく衣食の困難は筆などに語れぬ有様だった。この植民者の苦しみをよそに、会社(海興)の宣伝に次ぐ宣伝の力にだまされて、間も無く入植する者六百家族に余る盛況だったが、事情に慣れた者から移動しはじめて一ケ年ほどの間に六分通りは他のカフェ地帯へ移って行った。その頃、私たちも心は常に動きつつあったが幸か不幸か夫は茶の栽培に一つの望みを掛けていた》(『茶の花』189頁)。
 岡本は専門の製茶業の可能性を模索し、海興の藤田克己の仲介で、海興本社の渡邊孝に茶種の世話を頼むべく、出聖して5回も通ったが「今日は忙しいから明日に」と素っ気なく断られ続けた。半年掛りで妻と共に稼ぎ貯めた800ミルレースの旅費を費やし空しく帰るはずの前夜、偶然同宿人から声をかけられた。
 海興社員で移民収容所通訳の屋比久孟徳(やびく・もうとく)だった。「茶の種のあるシャカラを知っている。私に任せなさい」と侠気で探し出してくれた。翌日、茶種25粒を手に入れ、岡本はレジストロで播種し、育つことを確認して自信を深めた。岡本はその時の恩義を忘れず、爾来30年間、毎年6月になると欠かさず屋比久に茶を贈り、誰にでも語り草にして屋比久を我が恩人と感謝し続けた。
 渡伯5年目の1924(大正13)年、ようやく念願の緑茶が完成したが、《わずかの製品を街に売り出したところ、其の当時の移民の生活には緑茶など不似合の飲料だった》(『茶の花』192頁)という状態だった。(つづく、深沢正雪記者)