日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (62)=激動期の1930年前後=「もし北パラナだったら…」

ニッケイ新聞 2013年10月26日

こんな傾斜地を伐採開墾してコーヒーを植えていった(『20周年記念写真帳』135頁)

こんな傾斜地を伐採開墾してコーヒーを植えていった(『20周年記念写真帳』135頁)

 山根家では1929年に〃金のなる木〃コーヒー樹の苗を植えた。収穫は32年からの予定だったが、その間に世界は激変期を迎えた——。
 コーヒー生産は二十世紀初頭からだぶつき気味だったから、本来なら米国の禁酒法時代の特需期に生産調整すべきだったが、24年から逆に大量に植えつけた。それが実をつける29年頃、ウォール街の株式大暴落から始まる大恐慌が世界を襲った。その結果、30年までの2年間にコーヒーは半値近くに暴落した。ブラジル政府は1931年以来、コーヒーを焼き捨て始めた。その状況に追い討ちをかけるように、米国の禁酒法が1933年に解禁された。
 ブラジルは植民地として出発して以来、欧州向け商品を生産するモノカルチャー(単一作物)経済だった。パウ・ブラジル、砂糖の値段が悪くなってからはコーヒーだ。以来、ブラジル経済は輸出先である米国に強く依存するようになり、それが第2次大戦で連合国側に参戦する直接のきっかけになっていった。
 29年の世界大恐慌後、30年にはヴァルガスがクーデターで政権を握って憲法を停止し、32年7月にサンパウロ州が連邦政府に対して護憲革命を起こした。コーヒー国際価格暴落を受け、32年11月、ヴァルガスは向こう3年間のコーヒー植え付け禁止令を出した。コロノで苦労して貯めたなけなしの金で土地を買い、自作農になって一攫千金を夢見た日本移民の多くを、絶望の淵に追い落とした法律だ。
 ところが当時、パラナ州はコーヒー樹の本数がまだ少なかったので禁止令からは除外された。これを契機にパラナ州は本格的な発展が始まる流れだ。護憲革命でヴァルガスに反旗を翻したのがサンパウロ州コーヒー大農場主らで、パラナ州はヴァルガスの味方に回ったという構図も背景にあったようだ。
 もし、山根の父が買ったのが北パラナの原始林で、そこにコーヒーの苗を大面積植えていたら…。
 移民の運命は国政どころか世界の流れに大きく左右され、先読みすることは本当に難しい。それを知るための〃窓〃の役割は邦字紙が果たしていた。だが海興の機関紙だった伯剌西爾時報にそんな報道は難しかった。
 山根家のコーヒーがようやく実をつけ始める頃、国際相場は最低だった。それでも収穫して選別、出荷したが、35年頃次の悲劇が襲った。「最初の数年は良かったが、14、5歳の頃に害虫ブロッカが入ってきた。倉庫に置いて、さあ売りに行こうとするとブロッカが食い荒らして売り物にならなくなった」。
 まるで狙いすましたかのように、これでもか、これでもかと次々に厄難が襲いかかった。「あの頃、植民地ではみんなコーヒーを植えていたけど、全然儲からなかった」としみじみ振り返る。
 父は子供の教育を考えてわざわざセッチ・バーラスに転住した。「教育といえば日本学校にいったのみ。ブラジル学校には2年間しか行っていない。あとは独学ですよ」。
 セッチ・バーラスには約200家族が入ったという。その最奥部にできたのがキロンボで、さらに山奥だった。山根は「キロンボはもっと悪かった。サンパウロ州で最低の土地ですよ。北パラナの素晴らしい土地と比べたら、もう…。キロンボにも300家族入ったが10年しないうちにほとんど出た」という。
 「海興の地図には線が一本引いてあって『もうすぐジュキアから道が敷かれる』って説明されたって。それでセッチ・バーラスに入ったって。でもそれウソだって分かって、たくさんの人がセッチ・バーラスを出て消滅したようになった。でも僕らは出るにも出ようがなかった。10数年たって残ったのはわずか3家族ですよ。なにせ土地が悪いから話にならない。レジストロはまだ良かった。それでもキロンボよりは良いけどね」。(つづく、深沢正雪記者)