日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (63)=さらに山奥のキロンボ=「猿でも住めない不便な処」

ニッケイ新聞 2013年10月29日

金子慶子さん

金子慶子さん

 山根はセッチ・バーラスの町の近くで養鶏やったり、花ゴザを作ったりした。「ゴザ生産者組合を作って会長も4、5年やりましたよ。でも90年頃から中国製の安いのが入るようになってダメになった。少しお金が貯まっていたから20年前にレジスロに出てきた」。取材(3月12日)の2週間前に亡くなった弟に関しても「10歳年下。彼は父が買った土地でそのまま農業をやってきた。死ぬまでバナナを作ってね。弟も一生苦労したんです」と代弁した。
 父の最期を看取ったとき、言葉にならない体験をした。「父は最後までブラジルに金儲けのために来たつもりだったと思う。だって、臨終の時にね、父がなにかモゴモゴ言っているなと思って、耳を近づけたんですよ。そしたら『国に帰りたい』ってうわごとのように言っていたんです。——あの言葉を聞いてホント泣きましたよ」。例え移住先で60年、70年過ごそうと、自分が生まれ育った場所はいつまでも〃ふるさと〃なのだ。
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 「戦前には300家族も住んでいましたが、今は誰も日系人はいません」。1945年4月にキロンボで生まれた金子慶子(68、二世、3月12日取材)は、そう寂しそうに言う。
 祖父・山田義方(よしかた)は山形県出身でメソジト派のキリスト教徒だったが、宗教ゆえの差別を受けて新開地だった北海道へ移住し、父・義一(よしかず)は札幌で1907年に生まれた。
 「札幌の大通りにある時計台のある教会は、お祖父ちゃんたちが寄付して建てたと聞きました。信仰心が厚く、大きくて立派な聖書をブラジルにまで持ってきて家に置いてあった」という。「いつかブラジルにも教会を建てたいと思っていたのでは」と推測する。
 「祖父は札幌でアメリカ人宣教師から英語を習ったみたい」。つまり、当時としてはインテリだった。明治の日本で、もっとも開明的な雰囲気の中で信仰心をはぐくみ、ブラジルに〃日本村〃を作る理想に共鳴したようだ。「祖父は子供たちに日本語を教えながらキロンボ中を廻って伝道した。だから子供の頃の山本勝造さん(サドキン創立者)もそうだし、お爺さんに日本語を習った人はたくさんいる」と振り返る。
 金子は「海興の地図をみると『すぐに道ができる』って線が引いてあった。祖父はその〃道〃から『わずか2キロのところだから』と土地を買った。地図で見るといい場所にみえた。でも本当にその道ができたのは50年後…。1975年頃かしら」と振りかえる。「祖父と父はよく地図を見ながら『もうすぐセッチ・バーラスとジュキアにいい道ができる』と言い合っていた」。それだけ最も山奥だった。
 「キロンボは猿でも住めないような不便なところ。だから日本人はみんな出て行った。谷間で、平らな田んぼなんかできない。山か石。お茶を植えても山の斜面。山本勝造さんも、みんな出て行った」。
 彼女は次々に蛇の名前を列挙する。カニナナは3メートルぐらいの黄色に黒筋が入った無毒の蛇で、米袋の間に潜んでネズミを食べるという。でもカスカベル、ジャララッカ、コラルなどの毒蛇は要注意だった。「周りの人がこれを捕まえると、山田家に持ってきた。これを木箱に入れ、住所を書いて、ブタンタン毒蛇研究所に郵便で送った。そうすると血清を送り返してくれた。だから、みんな蛇に咬まれるとうちに血清を打ってもらいに来たんです。もちろんお金なんてとりません」
 血清がないときが大変だった。「傷口をナイフで開いて口で吸うんです。すぐにペッって吐き出さないと危ない。口の中に傷があってもダメ。よく爺ちゃんがそれをやっていました」。海興が約束した病院があれば、危ない橋を渡るようなそんな治療をしなくても済んだだろう。(つづく、深沢正雪記者)