日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (65)=輪湖アリアンサ建設へ=永田稠と肝胆相照らす

ニッケイ新聞 2013年10月31日

若き日の永田稠(1916年撮影、『謎の探検家菅野力夫』若林純、2010年、31頁)

若き日の永田稠(1916年撮影、『謎の探検家菅野力夫』若林純、2010年、31頁)

 運命の出会いは、移民史上最初の〃信濃村〃ともいえるレジストロ第4区だった。
 その一人は、中南米9カ国を一巡中の日本力行会の第2代会長、永田稠(しげし)だ。1908リフォルニア州で『北米農報』を発行した。第1代の島貫兵太夫の指名を受けて1914年に帰国して会長職を継ぎ、黄禍論が高まって日本移民移民迫害が強まるアメリカの替わりになる青年の送り先を探していた。
 もう一人は、この時セッチ・バーラスに入植していた輪湖俊午郎だ。イグアッペ植民地を経営する伯剌西爾拓殖会社は1919年に、営利主義的な海外興業に合併され、彼は幻滅していた。そして北原地価造——何もよりも決定的だったのは、3人とも理想の移住地を夢見る長野県人だったことだ。
 永田はノロエステ線の上塚植民地を見て、移住地建設には上塚周平のような人物が必要であると痛感し、《それからはブラジルの土地より人物の顔を一生懸命に見て歩いた。そして最後にレジストロ村にやって来て、まず北原地価造君という人を見つけ、それから輪湖俊午郎君を見つけた。この二人が協力してくれれば、信濃村をつくることは可能であると考えた》(『日々』(107頁)と書く。
 『発展史』下巻に出会いの様子が、もう少し詳しく書かれている。《大正九(1920)年半ばの事、当時前記輪湖はイグアペ植民地の奥で道路工事の監督をしていたが、そぼ降る雨の日の夕暮れ馬を馳せて一人の使者が来た。「只今日本力行会の永田さんが、北原地価造氏宅へお着きになり、あなたにお会ひ致したい」との伝言であった。六月と云えばサンパウロ州は降霜を恐れる冬のさなかである。北原宅の土間に焚き火して、三人は一夜を語り明かした。その頃永田は四十歳に漸く手の届いた年輩であり、北原と輪湖も亦三十前後に過ぎなかったから、恐らく天下の議論に熱を挙げ花を咲かせたことであらう》(33頁)
 永田はその晩のことをこう記す。《其の夜から翌日午前中、北原君の寝室で焚き火をして話し込む(中略)同郷の同志、海外発展の理想家と其の実行者とが一室に会して話すのは如何にも愉快な事である》(『日々』241頁)。〃焚火の誓い〃——アリアンサ移住地の出発点はレジストロにあった。
 北原が住んでいたのは第4部、まさに輪湖の講演を聞いてやってきた信州人も多く入った集住地区だった。後に赤間学院を創立する赤間重二(じゅうじ)が教鞭をとっていた地区でもある。《第四部は長野県人の集団地の観があり、インテリも多く、屁理屈や議論の好きな鞭撻の士が揃って居たので会社側に取っては苦手でもあり、又鬼門でもあって〜》(野村『思い出』25頁)とある。
 つまり〃信濃村〃の原型はレジストロ第4部のようだ。
 野村『思い出』によれば、開校式の招待状が来ても海興幹部は《ウルサイ部落で吊るし上げになるのが恐ろしくて皆仮病を使って》出席したがらなかったという状態だった。その第4部の部長が後に〃アリアンサ移住地の父〃といわれる北原地価造だった。
 輪湖は植民事業に関してこう考えていた。《およそ植民事業は、人間が生まれてから死ぬまでの面倒を見なければならぬ仕事である。採算だけで行く植民地に生命のあらう筈がない。植民地の生命は経済でなくして、経営者の人格にある》(『流転』190頁)
 輪湖は住民の一人として北島研三医師や北原地価造らと植民地改革についての会合を重ねていた。北島は青柳郁太郎から植民地の医師として招かれた理事であったが、医療者の立場から海興の経営に強い懸念を持っていた。永田稠が訪ねたのはそんなときだった。(つづく、深沢正雪記者)