日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (70)=まるで内地のような政策=平生が乗り出し宮坂送る

ニッケイ新聞 2013年11月7日

 《現在の「ブラ拓」移住地と称するものは、全部田付理事長時代に、梅谷氏の手によって、基礎付けられたというべきであろう》(『先駆者列伝』129頁)。梅谷は移住地を南米に分散させる主張をもっており、パラグアイにも43万町歩を購入して5千戸を移住させる計画を進めていた。
 日本国内のように振る舞う内務省のやり方に反発した外務省は、赤松祐之在聖総領事を通して、梅谷専務に難詰するなど軋轢が生まれた。これに伴い混乱した連合会を収めるべく、辞任した田付理事長の後に乗り出したのが平生釟三郎だった。東京海上保険など損害保険業界の近代化に貢献し、川崎造船所の再建を成し遂げた経済界の大物だ。
 これは『共生の大地 アリアンサ』(木村快 同時代社)によれば、緊縮財政を推し進める濱口雄幸内閣が、軍の反対意見を押し切ってロンドン海軍軍縮会議で条約締結を強行した流れと関係する。軍縮と同時に《巨額な資金を必要とする連合会の海外移住地の建設にも歯止めをかけなければならないと考えていたようである》(『共生の大地』211頁)と書く。そんな濱口首相が1930年11月、右翼の反感を買って東京駅でテロに襲われ倒れた。日本の1930年代は協調外交志向の政治家が軍と対立を深める中で、次々に倒される時代だった。
 幣原喜重郎が代理首相となり、それまでの《内務省主導による連合会組織の転換をかかるべく、密かに平生釟三郎に新しい海外移住合連合会理事長への就任を依頼していた》(同)。就任した平生は梅谷を更迭し、その代わりに「子飼い」の宮坂国人を送り込んだ。
 平生理事長は、梅谷を《「貴殿には、パラグアイ国に出張を命じていない。パラグアイ計画は貴殿一個人の計画と考えてもらいたい」と一蹴し、梅谷氏は専務理事としての辞表を叩きつけてやめてしまった》(『先駆者列伝』129頁)
 若い頃に学費で苦労した平生は、個人奨学金制度「拾芳会」(しゅうほう)を作り、《塾生たちは平生家に住み込み、そこから学校に通い、平生家の一員として遇された》(向学新聞サイトwww.ifsa.jp「平生釟三郎」)という。その一期生が宮坂であり、最も信用が置ける人物だった。
 《宮坂国人をブラ拓の専務理事(最高責任者)として送り込み、全面的な支援体制を築き上げていく。彼がこうまでして移民支援に乗り出したのは、共存共栄の国策を進めることで、戦争回避を目指していたからでもあった。それが国家への奉公と確信していたのである》(向学新聞サイト)という方向性だ。
 一方、アリアンサ移住地の中でも、第一は最後までブラ拓移管に反対だった。火を吐くような激論の上、背に腹は代えられない事態となった。《即ち熊本先ず落城して『ブラ拓移管』となり、次に鳥取・富山これに倣い、信濃独り種々なる事情より、孤城を守ること十年に及んだが、両三年前機を得て同じく合体》(『発展史』下51頁)。
 イグアッペ植民地という国策的な背景をもった民間移住地の中の造反組が中心となった第1アリアンサ。その建設思想は、国際協調による民間の国士的理想であり、外務省的な海興以上に、内地的な内務省との軋轢は避けられなかった。
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 このような日本側の動きに対し、当地排日派の急先鋒だったミゲル・コウト博士は1933年に出した印刷物の中で、《今後幾年かの後には、支那が満洲を失ったと同様に、ブラジルはアマゾンを失うに至るであろうと、預言めいた事を巧妙な筆致で書いた》(『発展史』上、112頁)。イグアッペからアリアンサ、アマゾンへと拡大する内務省的な動きに対し、危機感をもっていた。
 ブラジル側から見れば、張作霖爆殺など関東軍の満州での行動は脅威であった。もし「日本軍がブラジルでも隠れて活動していたら?」という恐怖心は、ただならぬものがあった。(つづく、深沢正雪記者)