カリブ海の〃楽園〃を往く〜第40回県連ふるさと巡り〜(6)=いざハラバコア移住地へ=51年ぶりの再会に涙も

ニッケイ新聞 2013年11月13日

ハラバコアの会館前で記念撮影/家があったあたりを指す野添さん。今は跡形もない

ハラバコアの会館前で記念撮影/家があったあたりを指す野添さん。今は跡形もない

 ハラバコア移住地に向けて出発する。途中混雑していると思ったら、トラックが横転している。さすがドミニカ。
 ガイドに電話が入り、一人がホテルにまだいるという。すぐさま内藤さんがバスを降りる。後から聞くと、ヒッチハイクで迎えに戻ったという。さすが内藤さん。
 バスは北上する。自然のなかに、貧困や政治が見え隠れするのはブラジルと同じだ。途中、台湾系によるものだという水田がのどかな風景をかもし出す。
 ハラバコアは標高600メートル。別荘地としても知られているように、瀟洒な山荘がときおり見える。1958年に13家族68人が初入植。国内の農耕地としては恵まれているというが、他移住地からの転住が続き、移住者らがひしめき合う状態になってしまったという。現在は7家族が住んでいる。
 バスは2006年50周年を記念し建てられた日本庭園前に到着。鳥居や浮島もある立派なものだ。出迎えてくれたのは日高武昭さん(70、鹿児島)。ドミニカ鹿児島県人会の会長でもある。 しばらく行ったところにハラバコア友好会館がある。裏手に広がる芝生を見ながら「ここらへんに家があったようですけど…全く変わっていますね」と話すのは、野添(旧姓・富樫)美夜子さん(63、北海道)。6歳で移住し、11歳のときにサンパウロ州ブラガンサ・パウリスタに、その後もヴァルジェン・グランデなど転住を続けたという。
 近くに住んでいたという浜田京子さん(64、鹿児島)が51年ぶりの再会を喜び、「働きものでねえ。弟のヨッタン(世史郎さん)を背負って炊事、ドラム缶のお風呂も焚いていたよねえ」と涙をぬぐった。
 清流ながれるリゾートホテルで昼食。半世紀とはかくも長い年月なのだ。ピエダーデ・ケサーダ市長が歓迎の意を表し、広島との関係を強調する。聞けば「広島市から贈られたゴミ収集車が活躍している」のだとか。そういえば、広島東洋カープはドミニカに野球アカデミーを所有している。
 ドミニカ訴訟を扱ったテレビ番組のDVDを1枚10ドルで販売しているという。記者は買わなかったが、3枚組で10人ほどが買ったようだ。定番の「ふるさと」を歌い、一路サントドミンゴへ戻る。
 旅行先での楽しみといえば多くあるが、やはり食に尽きる。郷土食レストランで「サンコーチョ」が出るというので胸が高鳴った。数種類の肉や野菜を煮込んだハレの料理だとか。
 メレンゲによる男女二人の踊り。地元のラム酒を使ったカクテルも手伝い、ようやくドミニカに来たという気分が盛り上がる。
 すると、小さなカルド・デ・モコトのようなものが出た。ほかの参加者には、ジャガイモらしきものが入っていたが、記者のものにはスープ用の牛骨しか入っていない。ナイチンゲールが嘆いたというクリミア戦争での病院食をイメージした。その後、米とキュウリなどを切っただけのサラダ。しばし待つ。
 「サンコーチョは?」とガルソンに聞くと驚いたことに最初のカルドがそうだという。本橋団長も「え!あのソッパで終わり?」と目を剥き、状況を確認するためガイドの席に向かった。
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 文化に上下はない。あるのは違いだけだ。だが悲しい違いだ。ガルソンに値段を聞くと、3ドルのセットだという。ガイドに聞くとレストランには10ドルで注文したという。消えた7ドル×76人。レストラン側との交渉を尻目に一行はバスに乗り込んだ。やはり気が抜けない、ドミニカ。
 バスのなかで「ホテルの和食屋で口直しをして欲しい」と告げられる。初日夜に1時間待たされた経験もあってか、レストランに現れる人は少なかった。数人で飲んだ「プレジデンテ」は、ことさら苦かった。(堀江剛史記者)