日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (77)=南聖でコロニア初の写真帳=馬にカメラ積み小道抜ける

ニッケイ新聞 2013年11月26日

ライフルを担いで植民地を廻って撮影していた安中末次郎

ライフルを担いで植民地を廻って撮影していた安中末次郎

 レジストロ植民地は1927年時点で、全面積1万7636ヘクタールを557ロッテに分け、五つのバイロ(部)に区分し、うち510が埋まっていた。約8千人の人口のうち、日本人と日系人は3651人と46%を占め、半数近かった。市街地にはアルマゼン海興のほかに出利葉商会、菅山商会など21の商業施設があり、農業用具店5、乾物店8、バール2、ホテル3、パン屋3など、半分以上はブラジル人およびシリア人商人のものだった(『As Colonias na Zona do Ribeira de Iguape』(1928,Jorge Midorikawa)。
 この菅山商会の創立者菅山鷲造は福島県相馬郡出身で、1914(大正3)年5月に若狭丸で渡伯し、モジアナ線のコーヒー耕地で就労したあと、1918(大正7)年にレジストロへ植民した古参だ。24(大正13)年に市街地で小売商を始め、《薄利多売現金主義を以て努力なされ、数ケ年にして農産物仲買呉服雑貨卸小売商をノロエステ線方面、日本人発展地アラサツーバに分店を設置され、ブラジル人経営者をしのぎ大発展なされつつあり》(『二十周年写真帳』36頁)という成功者だった。
 1932年時点で本店はすでにサンパウロ市に移っており、支店としてはノロエステ線のカフェランジア、リンス、アラサツーバ、チエテ移住地、ルッサンビラ駅熊本移住地、ビリグイ駅アレグレ植民地、レジストロと7店を構える繁盛ぶりだった。
 終戦直後の1946年に始まった祖国に救援物資(ララ物資)を送る母国戦災救援運動のサンパウロ市委員会の幹事長になり、戦後一貫して渡辺マルガリーダ女史を助け、救済会の活動に粉骨砕身したことでも知られる人物だ。
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 そんな市街地に1928年、移住地にはごく珍しい写真屋ができた。北海道で写真館を経営していた安中末次郎は、レジストロに住む知り合いの外山啓七の呼び寄せとして、1歳だった長男の裕(ゆたか)をつれて1928年2月14日にサントス港に着いた。家族3人で移住して写真館を初めた。裕は1926年7月に札幌市で生まれたが、9人兄弟のうち次の長女、次女までがレジストロ、三女、四女がバストス生まれだ。
 「父は17歳で札幌に写真屋に丁稚奉公にいった。技術を教えてくれた阿部義一(ぎいち)さんは享年48、若くして亡くなった。札幌大通り西2丁目だった。父はそこで4年働き、5年目は死んだ主人の子供にその技術を教えた。ちかくに別の店を構えたが、お客さんが自分のところにみんな来てしまう。主人の店が潰れてしまったら困るからって、レジストロに知り合いがいるから、そっちに行こうかと」。
 日本移民の写真帳といえば1921(大正10)年の『南米写真帳』(永田稠、東京)が最初だろう。でもブラジル側で作ったという意味では『イグアッペ植民地創立二十周年記念写真帳』(1933、安中末次郎)が最初で、同じ安中による『バストス入植十周年写真帳』(1937、同)が続く。戦前の様子を現在に生々しく伝える数少ない貴重な記録だ。
 パラナ州ロンドリーナ在住の裕(2009年12月11日取材当時83歳)は「昔の機材は重たかったんだよ。それに獣が出て危険だから、鉄砲持っているでしょ。昔はフラッシュなんてなかったから全部、外明かりだな。あの頃、サントスには日本人の写真館があったが、他にはなかったかもしれない」と振りかえった。
 末次郎は店を構えるとさっそく写真帳制作に取り組んだ。当時のカメラは木製で大きく重い。それに大きな三脚、銀盤などを馬に積んで、移住者の家から家へとレジストロのあらゆる小道を抜けていった。当時としては実に立派な写真帳は、32年7月から半年がかりで3植民地を撮影し略歴を聞いて歩いた労作だ。(つづく、深沢正雪記者)