ハイカラさん海を渡る=移民画家 大竹富江の一世紀=(5)=日系社会では異端児か=神経太く〃大竹時間〃貫く

ニッケイ新聞 2013年11月27日

若林和男さん

若林和男さん

 大竹富江は日系社会の異端児だ。ある部分で肩を寄せ合うように徒党を組んで生きた、多くの戦前移民とは対照的な存在だ。彼女を知る人は一貫して、「ブラジル社会で生きていた人」と口をそろえる。
 日系画壇「聖美会」(1935年設立)にも入会していたが、それほど深いかかわりはなかったとされる。リカルドさんはこの会を「移民の共同体でこういうグループを作ったところはない。日本人の芸術への意識の現われ」と高く評価している。
 会員だった画家・若林和男さん(82、神戸)は、「会員はプロであっても、『コロニアに錦を飾ろう』と考えるような人が多かったと思う」と言う。新人を温かく受け入れる一方、閉鎖的なコロニアの気質を擁しており、伯社会に進んで入っていこうとはしない聖美会と、戦後移民の考えとは相容れないものがあったようだ。
 「大竹さんは、戦後移住した日系美術家に考えが近かったと思う。『コロニアがあるからブラジルに来たんじゃない』と考える戦後の人たちの目的の先には、ブラジル美術界があった」と若林さん。富江さんはその先陣を切った一人だったのだろう。
 50年代、2度サンパウロ・ビエンナーレに出展した津高和一さんから富江さんと間部学さんの紹介状を手に入れ、61年に妻と渡伯した。作家生活が始まると同時にブラジル社会に飛び込んだ富江さんは、日本からやってきた彼に、同ビエンナーレの国際審査員だった批評家のマリオ・ペドローザや、ウィリス・デ・カストロなどブラジル人アーティストを紹介した。「二人は、私がブラジル美術界に入れる窓口を作ってくれた。二人の知己を得たことは、芸術生活で本当にありがたかった」。大竹一家とは頻繁に家を行き来する間柄だった。
 「大竹さんは、僕みたいな人間には羨ましいほど神経が太い人。今のように有名になったからじゃなく、昔からそうだった」。〃ブラジル時間〃にちなみ〃大竹時間〃などと言われるほど、時間には無頓着だったとの定評まである。
 たとえば彼女は、自分が表彰を受ける式典にも平気で遅れてやってきた。「間部さんたちと展覧会に出品した時なんかは、絵をトラックに積み終わっても大竹さんの絵だけが届いていない。電話してみると、『待って。今仕上げているから』という返事が返ってきた」。そんなエピソードは聞けば聞くほど出てきそうだ。
 また、有名無名を問わず若手ブラジル人アーティストの展示会に顔を出していたという富江さんの誕生日には、ブラジル人らが足の踏み場もないくらい集まったという。日本人移民百周年時はグアルーリョス空港とサントス市に、80周年時には23デ・マイオ通りに記念モニュメントを制作し、移民記念年をともに祝った富江さんだが、一方で、コロニアのイベントにはほとんど顔を出さなかったようだ。
 彼女が作家生活に入った1950年代、「ブラジル美術界の3分の1くらいは女性が占めていた」というのが若林さんの感触だ。「日本画壇の縮図」である聖美会には、女性作家は多くて5分の1、せいぜい10分の1程度だったという。彼女自身は「リベルダーデから遠いから、あまり行かなかった」と話していた。だが、自由を求めてやってきたブラジルで、日本社会の縮図のようなコロニアには近づきたくなかった、というのが本音だったのではないだろうか。(つづく、児島阿佐美)