日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (79)=全伯一の野球チーム育てる=無敵ミカドに辛勝し優勝杯

ニッケイ新聞 2013年11月28日

笹原謙次(写真出典=『ブラジル野球史』上巻)

笹原謙次(写真出典=『ブラジル野球史』上巻)

 安中末次郎一家がバストスへ転住する少し前、後に大臣を輩出する一家もレジストロから移っていた。植木茂彬の父酉二(ゆうじ、長野)だ。茂彬は『サンパウロ市生まれの二世の眼差し』(08年、JBC、212頁)の中でこう説明している。
 《私の父は一九一八年に十歳で、長野(須坂市)に紡績工場を持っていた私の祖父と一緒に、ブラジルへ来ました。その会社が破産したのですが、祖父は若干ながらも金を取り戻し、ブラジルのレジストロに土地を購入したのです。最初はコーヒーを植えたのですが失敗します。あの地方の土地は、コーヒーには不適だったのです。しかしレジストロでは、米の水耕栽培でパイオニアになりました。一九三〇年に、私の父はバストスへ移りました。彼は畑中(仙次郎)さんに雇われたのです》
 茂彬はバストスで1935年に生まれ、1974年〜79年に鉱山動力大臣、1979年〜84年までペトロブラス総裁を務めた。野村丈吾しかり、植木茂彬しかり。日系政治家の源流の一端ここから始まっていた。
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 レジストロ最古参二世の松村昌和さん(91)は「1920年代、レジストロは野球が強いことで有名だった」と懐かしそうに語る。海興自体が熱心に野球を振興していた。父栄治が1923年に一時帰国し、翌24年に戻ってきた時にも、大量に野球の道具を持って帰った。「長野県人の家長は野球をする人が多く、1924年に第1回ミカド倶楽部との試合の時には、6、7人が長野県人だった」と思い出す。
 「移住地の味気ない生活に潤いを。父はそう思ってスポーツを奨励していました。戦前、野球といえばまずミカド、レジストロ、アリアンサでした」。
 海興社員だった野村隆輔も《レジストロ植民地には学校出や信州人が多数居た為に、創立当初から野球は盛んであった。然し草分け時代は経済的に恵まれず、バットは勿論、グローブに至る迄皆手製であり(中略)笹原憲次が海興アルマゼン部の赴任と共に野球熱が高まり、本格的なものとなつて来た。同君は慶応出身で、菅瀬(一馬)、高浜(徳一)などの大選手がそろっていた慶応の野球黄金時代の野球部員であり、草分け時代の当国野球界では技術と人格の点では第一人者であった》(野村『思い出』43頁)
 1915年に自由渡航者として渡伯した笹原謙次(静岡)は、慶応仕込みの野球を持ち込んだ。サンパウロ市で米国人と共同で農産物売買を手がけ、彼らの野球チームに入って投手を務めた。『ブラジル野球史』(上巻、ブラジル野球連盟、1985年)によれば、笹原は矢崎節夫らと1920年に日本移民初の本格野球チーム「ミカド運動倶楽部」を設立し、役員の傍ら選手としても活躍した。
 1923年に海興へ入社し、レジストロに赴任して販売部長をしながら10チームを作ってリーグ戦をし、野球振興と青年健全育成に努めた。野球経験のあった海興医師の菊池円平も1924年にレジストロへ赴任し、笹原と共に強豪チームに育て上げた。
 その結果、レジストロ選抜チームは1924年に、ブラジル初の野球対抗試合がサンパウロ市で開催された時、無敵を誇ったミカド野球団と対決して大接戦を演じ、辛うじてレジストロ軍が勝った。優勝銀杯を意気揚々と植民地に持ち帰った栄光の歴史がある。
 その笹原も同植民地で1926年、脳溢血により37歳の若さで急逝した。その野球熱を通して培われた青雲の志は、植民地の目に見えない宝となって継承された。(つづく、深沢正雪記者)