日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (83)=国際協調的な南進論の流れ=軍刀献納で板垣陸相が感謝

ニッケイ新聞 2013年12月4日

松村栄治が軍刀ひと振りを陸軍に献納したときに、板垣征四郎陸軍大臣からもらった感謝状(松村昌和所蔵)

松村栄治が軍刀ひと振りを陸軍に献納したときに、板垣征四郎陸軍大臣からもらった感謝状(松村昌和所蔵)

明治時代の海外進出という期待感に満ちた眼差しが、まるで世界地図に刺した虫ピンの先のようなイグアッペ植民地に注がれた。明治大正を通して、移住という国際協調的な手段を通して世界とつながりを持とうとした日本だが、1930年前後の出移民圧力は、蒸気を吐いてクルクルと回る圧力鍋のように、とんでもない強さに達し、突破口を目指して弱いところへと向かった。そこに大きな歴史の境目があった。1934年にブラジルで二分制限法が承認されて南米行きの出口をふさがれ、平和的手段に限界が生じた。日本は関東軍主導の武装移民団による満蒙開拓路線に活路を見出し、同時にブラジル移民は火が消えたように先細りになっていった。

1939年に在聖総領事がレジストロを視察し、こう講演したことを、松村昌和は覚えている。「支那事変から2年経って、日本国内で物資が不足している。特に支那で軍刀が不足している。もし持っている人がいたら陸軍省に献納して欲しい」と。当時、自宅に軍刀あった。
1924年に父栄治が訪日した際、祖父が『最後の別れだ。これを持っていけ』と先祖代々の家宝を持たせた。それを献納すると「邦字紙でも『日本刀献納第1号』って見出しで大きく報じられた」と振りかえる。昭和14(1939)年7月17日付けの板垣征四郎陸軍大臣からの感謝状が、松村家には今も大事にしまわれている。
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イグアッペ植民地を建設した伯剌西爾拓殖株式会社の創立委員会の重要メンバーだった高橋是清は、1936(昭和11)年に二・二六事件により、東京・赤坂の私邸に居たところを、反乱軍襲撃部隊に胸を6発の銃弾で打ち抜かれて暗殺された。享年82。あの日露戦争の財政面の立役者にもかかわらずだ。
明治の日本が持っていた幅広いナショナリズム志向が、最終的に軍国主義に集結していく中で、「国際協調的なナショナリズム」ともいえる流れがはじき出された。おそらくブラジル移民はそこに位置していた。
明治の海外発展に対する考え方は、大きく2方向に分かれていた。一つは「北進論」で日清・日露戦争の後、日本政府の国策は朝鮮・満州・中国大陸などへの北方進出を図る方向性。もう一つは、オセアニアや東南アジア島嶼部への貿易・移民事業を試みた「南進論」だ。ただでさえ少数派だった南進論の中でも、南米移民推進派はさらに弱小だった。
「南進論」は水野龍も推しており、青柳郁太郎自身も1908年に桂首相に提出した「海外植民政策に関する意見書」ではドイツの例を引いて、侵略的植民政策ではなく経済的植民政策こそがブラジル移植民事業のあるべき道だと解き、まさに南進論そのものの主張からイグアッペ植民地開発を始めていた。
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一方、ブラジル経済は米国に依存し続けていた。1929年のニューヨーク株式市場の大暴落を引き金にした世界大恐慌により欧米が購買力を失ったことで、輸出品をコーヒーに依存していたブラジル経済は一気に衰弱した。ヴァルガス大統領は経済を強化するために、製鉄業、石油産業を興すことを強く望んでいた。
日本が太平洋戦争に突入したのは1941年だが、欧州に近いブラジルはドイツが侵攻した1939年には〃戦中意識〃を強めていた。(つづく、深沢正雪記者)