日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (84)=国交断絶でなぜか敵国人扱い=戦後勝ち組につながる萌芽

ニッケイ新聞 2013年12月5日

家宝の軍刀を手にする松村栄治(松村昌和所蔵)

家宝の軍刀を手にする松村栄治(松村昌和所蔵)

家宝の軍刀を手にする松村栄治(松村昌和所蔵) 家宝の軍刀を手にする松村栄治(松村昌和所蔵) ヴァルガス大統領は思想的にはイタリアのムッソリーニの労働者政策に多くを学び、同じ独裁政権としてナチス・ドイツに強い親密感を感じていたといわれ、大戦に際し最初中立を保っていた。しかし、主たる輸出品であるコーヒーの大半は米国市場に依存し、経済的には強く米国に結びついていた。ドイツは容赦なく潜水艦を大西洋におくり、伯米間をゆく商船を沈め、米国への補給を断とうと、ブラジルに圧力を加えていた。
42年1月15日から27日にリオで行われた汎米外相会議で、米国の強力な働きかけにより、亜国を除いた10カ国と共にブラジルは対枢軸国経済断交を決議した。
ヴァルガスはこの戦争という極限状況を経済発展のために最大限に活用した。連合国側についた最大の理由は、国営製鉄公社がリオ市郊外のボルタ・レドンダにブラジル初の製鉄所を建設するのに、米国からの大型融資を42年に取り付けたからだったと言われる。
ブラジル政府は1942年1月29日に日本に国交断絶を宣言し、首都リオ近郊の日本人の一部はフロレス島にスパイ容疑で収監された。2月2日にはサンパウロ市でも日本人集住地区だったコンデ街界隈で治安上の理由により、突然の第1次立ち退き令が発令され、2月11日には敵性国資産に対する資産凍結令が発せられた。
対日外交上は「断絶」をしただけで、宣戦布告した訳ではないにも拘わらず、なぜか敵国人扱いされていた。
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石射猪太郎は1940年11月に駐伯大使として赴任したが、太平洋戦争開戦後42年7月に早々と外交官全員と共に交換船で引き上げた。小野一生(かずお)は「開戦直ぐ後、レジストロからも交換船で引き上げた人がいたね」と証言する。
当時の多くの移民大衆は、日本の「植民地」に住み、日本帝国総領事館の指揮下にいると感じ、海外の「日本共同体」に属している意識を持っていたようだ。
香山六郎はこう綴る。「我々は平素一面には天皇陛下の赤子だと認識を強いられながら、一面はいざとなればサヨナラもつげられずに棄民扱いをされたのだ。私達は駐伯日本外交官の吾々に対してサヨナラも告げずにかくれるように逃げていくような態度に我等の民族的、否人間的教養の浅はかさをしみじみと感じていた。吾々移植民に永住せよなんておすすめなさる外交官連中が敵性国人となれば一番に尻に帆かけてにげ出すお偉方なんだ」(『香山六郎回想録』419頁)
在亜日本大使館の参事官を退官した宮腰千葉太は、37年に海興支店長として渡伯した。彼は二世大学生を指導する目的で設立された龍土会で「日本精神講話」を連続講演した。日本語教育の砦だった文教普及会で初代会長を務めた古谷重綱(元アルゼンチン公使)、野村忠三郎も同事務局長として戦争中まで日本語教育にまい進した。
アリアンサ、バストスなどを建設したブラジル拓植組合は37年に預金部を独立させてブラ拓銀行を開設したが、40年に発展的に解消させて「南米銀行」を創立させた。戦中に資産凍結令が出た時の重役陣の一人、後の南銀社長の橘富士雄は《宮坂さんからは、日本が必ず勝つ、平和な時代が来るから南銀をつぶすな、といわれた》(セクロ出版社、『セクロ 移民70周年記念特別増刊号』206頁)と興味深い回顧をしている。
戦後認識派と呼ばれる人たちも「日本が必ず勝つ」と信じていた時代だった。(つづく、深沢正雪記者)