日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇=(85)=東宮少佐が永田稠を「国賊」=満州に打ち込んだ調和的楔

ニッケイ新聞 2013年12月6日

満州に建設された新京力行村のクリスマスの(『素晴らしい満州日本人開拓団』永田泉、2010年)

満州に建設された新京力行村のクリスマスの(『素晴らしい満州日本人開拓団』永田泉、2010年)

 海外移住組合連合会の理事長になった平生釟三郎によって、アリアンサ建設の功労者・梅谷光貞は、必死に進めていたパラグアイ拓殖計画を蹴られて専務理事を31年に辞任した。その後、32年から永田鉄山の依頼で「関東軍特務部の初代移民部長」に就任した。
 『先駆者列伝』129頁には驚くべき情景が描写されている。《東京の中央亭の一室に、時の小磯陸軍次官、永田軍務局長、今井五介、永田稠の四人が会合した。話題は満州移民のこと。次官「じゃ満州移民をやると決めるか」、軍務局長「中心人物は誰にしたらよいか」、今井さんが白髭をしごきながら「梅さんかな」と答えた》。 小磯は関東軍参謀長・小磯國昭(くにあき)、永田軍務局長は永田鉄山(てつざん、長野県)だ。
 神戸大学附属図書館サイトによれば、1935(昭和10)年2月11日付け大阪朝日新聞には「まず依蘭方面に十万家族を移住=五千万円で〃満洲拓殖会社〃案=現地視察を終えて梅谷氏語る」という見出しの記事が掲載された。梅谷が現地視察をして満州移民会社の事業案を練った様子を報じたものだ。35年に退官するまで2年2カ月にわたり、百万町歩の土地を購入し、30年間で100万戸入植という満州移民計画を立案遂行した。退官後、東京に帰ったが在満時の労苦がたたって肝臓病となり36年死去した。(増補『梅谷光貞略伝』梅谷光信、8頁、85年)。関東軍内部での軋轢がストレスとなったのだろう。
 つまり、梅谷は関東軍の中枢でブラジル経験を満州移民計画で活かした。アリアンサ建設で恩義を感じていた永田稠も関東軍嘱託として共に参加した。当時、関東軍には皇道派の東宮鉄男(とうみや・かねお)少佐(「満蒙開拓移民の父」)ら勢力と、小磯陸軍次官や永田鉄山軍務局長を中心とする統制派との対立があり、統制派の反対を押し切って32年に第1回武装移民が強行された。
 永田稠は現地視察をし、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出した。《入植地の測量もせず、今後の営農計画も確立しないまま一時に五百名もの移住者を入植せしめたことは人類の移住史上いまだ一度も行われたことのない暴挙である》(『素晴らしい満州日本人開拓団』永田泉、2010年、19頁)。永田が〃暴挙〃と批判した内容が正しかったことは、数年後に歴史が証明した。
 この報告を読んだ東宮少佐は34年、永田稠を「国賊」と断定し、関東軍から追い出した(同29頁)。皇道派の相沢三郎陸軍中佐によって永田鉄山が斬殺されると、両派の抗争は激化し二・二六事件が起きた。永田鉄山の死後、統制派では東条英機が台頭して太平洋戦争への道を開いてしまい、満州も内地からの統制が効かなくなった。鈴木貞一陸軍中将は《もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった》と述懐したと言われる。
 永田稠は、現地中国人と調和した移住地として38年、満州に「新京力行農場」を建設した。〃暴挙〃満州移民の「狂気」に打ち込んだ調和的移住の楔だ。だから終戦時も、そこだけは全員無事に引き揚げ、地元中国人から別れを惜しまれ選別までもらった(同14頁)。
 そんな梅谷や永田稠の存在は、戦後の日系社会指導者からは「勝ち組」的と見られ、アリアンサ移住地の源流ともいえる、青柳育太郎やイグアッペ植民地と共に、戦後編纂された移民史から省略されたようだ。
 梅谷、輪湖らのアリアンサへの貢献は『70年史』『80年史』にほぼ記されなかった。特に『70年史』では《一九二八年からブラ拓はサンパウロ州では、アリアンサ、チエテ、バストスなどの移住地の造成に着手し〜》(18頁)と、まるでブラ拓が最初からアリアンサを作ったかのように書いた。梅谷以前の流れを削除することで、結果的にブラ拓責任者に宮坂国人が赴任して以降の歴史が、もっぱら記述されることになったのではないか。(つづく、深沢正雪記者)