日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇(87)=海興は資産凍結、戦時体制へ=サンパウロ州海岸地帯に強制退去命令

ニッケイ新聞 2013年12月10日

強制退去の様子を報じる『A Tribuna』(サントス)1943年7月10日付け

強制退去の様子を報じる『A Tribuna』(サントス)1943年7月10日付け

 セッテ・バーラスで育った山根善信(よしのぶ)は戦争中には、独学で伯字紙が読めるようになっていた。「近隣にラジオを持っている人はいなかった。字引一つでブラジルの新聞をよみ、それを日本語で書いて父に伝えた。ミッドウェー海戦は『ミツドエ』と書いたな」と思い出す。
 地方部の準二世は、ブラジル事情に疎い親世代と一般社会の中間にいた。「僕は割とブラジル人と仲良くしていたが、あの頃悪いデレガードがいてね。片っ端から日本人の家を家探しするんだ。うちにも僕が書いたブラジルの新聞を翻訳したノートが5册ぐらいあったが、雑誌とかと一緒に焼かれてしまったよ」と悲しそうにいう。「レジストロまで出るのにサルボ・コンドゥト(通行証)が必要な時代だった。4、5軒しか日本人の店がないのにそこでも日本語はぜったいダメ」という不便な時代だった。
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 もちろんレジストロでも戦争が影を落としていた。小野一生(かずお)も「戦争中は石油、油、砂糖、塩が配給制になった。海興の事務所は閉鎖されていたが、配給はそこでやっていた。戦争中はいろいろなものが不足した。ひと月に一回以上、町まで馬に乗って、ザラメの1キロと石油1リットル、食用油も1リットルずつ配給を取りに行った。それを取りに行くのが僕の戦争中の仕事だった」と思い出す。
 小野は「戦争中は町に買い物に出ても兄弟で歩くの怖かった。家の中は日本語だったから、ついつい兄弟だと町中でも日本語をしゃべりそうになる。でも、それを見つかると警察に捕まった。田舎でも建前をして5人、10人集まって夜まで飲んでいて警察に連れて行かれて24時間牢屋にぶち込まれたっていう親父さんがあっちこっちにいました」ともいう。
 松村昌和も「戦争になってから日本から蚕のタネが来なくなって養蚕がダメになった。戦争中値段は上がったが、ここでとった蚕のタネはみな病気になって、繭の中で腐れて死んでしまった。父が養蚕技師を呼んで養蚕やっている人のところを回ったがダメでした」という状態だった。
 亀山譲治(じょうじ)も戦争中、学齢期を迎えていた。「3部の日本語学校に通ったけど、先生の家の裏にある養蚕小屋で隠れて授業をやっていたね。だから人が来ると、バッーと逃げるんだ」と語った。「戦争中にうちのラジオとか蓄音機とか警察に取られたよ。日本人が二人集まるともう引っ張られた時代だから。でもうちの中では日本語だった。僕らは普通に仕事をしていたな。海興は閉鎖させられたけど」。
 そして海岸地帯独特の事態が発生した。「戦争中でもここは日本人ばっかり。それで立ち退きさせられるとかいう噂があってね。そんなに本気で心配はしてなかったけど、戦争中、軍隊が通るとかいう時は、道路近くの人が警鐘を鳴らすんだ。それを聞いてみんな逃げたりした」。
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 ちょうど70年前の1943年7月初め、1万トン級のアメリカ汽船2隻と6千トン級のブラジル汽船3隻が、サントス沖でドイツ潜水艦によって沈没させられ、大量の船体の破片と共に、乗客や乗組員の遺体が無数に海岸に打ち寄せられた。内陸部では分からない〃臨戦状態〃の光景が海岸部にはあった。
 これを受けて7月8日、サンパウロ州海岸周辺に住む日本移民とドイツ移民に対し立ち退き令が出された。4千人とも言われる邦人が、家財道具を置いて夜逃げ同様に移動しなければならなかった。
 サントス市の最有力紙『A Tribuna』(以下『トリブナ』)同年7月9日付けは1面で、《この処置はサントスおよびサンパウロ州海岸地帯に在住するドイツ人、日本人の約1万家族に発令された》と報じた。《サントスだけではなく、サンパウロ州海岸北部、南部も対象》と明記されている。つまり、イグアッペ、上流のレジストロも範囲だった。(つづく、深沢正雪記者)