日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (88)=イグアッペ郡も立ち退き検討=あわや桂植民地も追放寸前

ニッケイ新聞 2013年12月11日

桂植民地とイグアッペをつなぐ連絡船(『20周年記念写真帳』1933年、16頁)

トリブナ紙43年7月11日付け同紙には、ドップスのルイス・タヴァーレス・ダ・クーニャ捜査官が海岸地帯20カ所の視察を終えて、サントスに戻ってきたことが報じられている。《メーロ少佐の命令を実行するために、500キロの海岸線にいる日本人とドイツ人の600家族を退去させた》とあり、さらに《8千人の日本人が居住するレジストロ農業植民地での実施に関しては、機会を見て検討される》となっている。桂、レジストロも明らかに強制立ち退きの対象として検討されていた。
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西館は思い起こす。「サントス立ち退きの時、ジポブラも追放されるところだった。だいたい二世の世代になっていた。イグアッペまでみんな一端は出たんだ。でもイグアッペに来たら『出なくても良くなった』って言われて、また戻ってきた。僕は小作していた時だったし、インボーラしようかって本気で準備していた。でも『出なくんてもいい』っていうんで、それで落ち着いた」。
何が起きたかは、当事者にも分からなかった。西舘はただ「政治上の何かがあって出なくても良くなったんだろうね。どうしてそうなったのか、よく分からないけどね」と思い出す。
柳沢ジョアキンも「船に乗って、桂を出るつもりでイグアッペの港についた。そしたら、『出なくても良い』って知らされた。みんな元に帰った。出なくても良くなった理由は、当時のマヌエル・フォルチス郡長が『彼らの子供はブラジル人(二世)だ』って抗議をしたからだと聞いている。彼はヴァルガスから指名された、大統領に近い人物だから抗議して聞き入れられた」という。
『イグアッペ—我々の歴史』を著したロベルト・フォルテスのサイト(http://robertofortes.fotoblog.uol.com.br/photo20050904142704.html)を要約すれば、1938年には桂植民地創立25周年が祝われ、各種スポーツ、文化行事が行なわれた。この30年代から太平洋戦争開戦までイグアッペ郡長だったのはマノエル・オノリオ・フォルテス(tenente Manoel Honorio Fortes)、マノエル・オノリオ(Manoel Honorio)、ネッコ・フォルテス(Neco Fortes)らで、彼ら有力政治家が桂を支援したとある。
重要な港町だったイグアッペ、しかもマノエル・フォルテスは「テネンテ」と呼ばれる地方の大物だ。そのような人物の進言であれば、ヴァルガスが特例扱いをした可能性もありえるだろう。
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1943年7月10日付けトリブナ紙は、1549人(大半が日本移民)が9日に強制退去させられた様子を報じ、《史上初の処置は秩序正しく実施された》とドップスを褒めたたえた。
日本移民もドイツ移民も忠実に従った。《パラペ区やサンタマリア地区に住んでいた日本人はほとんど農家で、交渉する時間もなく、豚、鶏などの家畜を捨てて値で売りさばいた》という部分だけ、さすがに同情的に書かれている。長年の勤労で蓄財したものをタダ同然で投げ売りし、着の身着のままでサンパウロ市に移動させられた移民らの心中はいかほどか…。
ポンタ・ダ・プライア在住のある日本人老移民は、《サントスに25年間住んできた。行政命令だから進んで従うが、とても不安だ》と漏らしたと同記事にある。25年前なら1918年、笠戸丸から10年後だ。平穏に暮らしてきた移民を、枢軸国側だというだけで強制退去させた。
現在からすれば「日本とブラジルは国交は断絶していたが別に戦争状態にあったわけではなく強制立ち退きは明らかにブラジル側の勇み足であった」(『日本は降伏していない』太田恒夫、文藝春秋、1995年193頁)と客観的に云うこともできる。だが当時の日本移民には抗議のやり様もなかった。されるがまま、ひたすら耐えるしかなかった。(つづく、深沢正雪記者)