日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (90)=立ち退き令から特別に除外か=なぜか日系集団地を市制化

ニッケイ新聞 2013年12月13日

ジョナス・バンクス・レイテ市長(『イグアッペ植民地開拓50周年記念帳』、5頁)

ジョナス・バンクス・レイテ市長(『イグアッペ植民地開拓50周年記念帳』、5頁)

 小野一生は強制立ち退き関し、特に詳細な記憶を持っている。「戦争中、海岸部立ち退き命令が出たとき、5人の地元ブラジル人政治家が、リオのヴァルガスを訪問して、『レジストロは日本人が拓いた町だから、日本人を立ち退かせたら町が立ち行かなくなってしまう』って訴えたと聞いている。それに対し、ヴァルガス大統領は『おまえたちがどこまでも責任を持つのなら』と許可してくれた」との話をどこかで読んだが、それを証明する新聞記事などは持っていないという。
 小野は「そのおかげで現在がある。本当に立ち退きさせられていたレジストロはどうなっていたか。彼らはこの町の発展に尽くしてくれた。5人の名前はルアに付けられている。ジョナス・バンクス・レイテ(Jonas Banks Leite)、シンフロニオ・コスタ(Symphronio Costa)、シゼナンド・デ・カルバーリョ(Sizeando de Carvalho)、ジョジノ・シルベイラ(Josino Silveira)、ジョアン・ポッシ(Joao Poci)の5人だ」という。
 やはり那須野秀男も強制退去に関し、「海岸地帯は外国人はダメだとヴァルガスが追い出そうとしたが、レジストロは日本人が作った街で、ここから日本人がいなくなったら町が潰れるって、特別に『残っていい』ということになった」と聞いているという。
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 イグアッペ郡の中でも納税額が飛び抜けて大きかったレジストロは、なぜか大戦真っ最中の1944年11月30日に市政交付の法令14・334が出され、1945年1月1日付けで実際に市として独立した。
 これも同地最大の謎の一つだ——。枢軸国民として迫害され、前年の43年には強制立ち退きさせられそうになった日本人が大半を占めた区を、この時期に市に昇格させるのは普通ではない。
 例えば44年11月25日、トリブナ紙のトップ記事は米軍機による東京大空襲を写真付きで報じた。その前後を見ても連日、連合国側に立った記事が掲載され、枢軸国側がいかに劣勢に陥ってきたかを入念に報じている。そんな雰囲気の中で、市にするとは、なんとも不思議だ。
 なんらかの政治的な意図があったのではないか。おそらくイグアッペ郡はやっかいな日本村の責任を負うのを恐れて、敢えて〃切り離し〃、その責任を地元のブラジル人有力者に任せた可能性があるのではないか。
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 今年8月の平和灯ろう流しの際、郷土史に詳しい市幹部カルロス・ジュニオルとの会話の中で、「むしろ日本人ばかりで扱いが難しい地域だからわざと独立させようとした」との仮説をもって調査中との話を聞き、目からウロコのような衝撃を覚えた。
 確かにそうかもしれない。ヴァルガスからすれば、法律上では立ち退かせなくてはならないが、地元有力者が「日本人を立ち退かせると町が機能しなくなる」と例外扱いにするよう嘆願に来ている。それなら「お前たちに任せるから責任を持て」という意味で、イグアッペ郡から敢えて戦争中に独立させた。そして嘆願に来たブラジル人有力者らを官選市長に任命して責任を持たせた。
 1944年から48年までの官選市長はマリオ・パシェコ・カンポス(Mario Pacheco Campos)、ジョジノ・シルベイラ(Josino Silveira)、ベンジャミン・ジアニ(Benjamin Giani)、ジョゼ・ジアス・デ・アラウージョ(Jose Dias de Araujo)の4人だ。47年の初選挙でシゼナンド・デ・カルバーリョ(Sizenando de Carvalho、1948—52)、ジョナス・バンクス(Jonas Banks Leite、1952—56、計3期)が選ばれる流れだ。
 小野が挙げた人物のうち3人は市長、残り2人は市議になった。後世の歴史家にぜひ解明してほしい謎だ。(つづく、深沢正雪記者)