日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (92)=実は不可能だった日本人収容=ドップス送り居なかった謎

ニッケイ新聞 2013年12月17日

海興職員だった原梅三郎(『ブラジルを語る』1962年、五二出版より)

海興職員だった原梅三郎(『ブラジルを語る』1962年、五二出版より)

 レジストロに1917年から23年まで海興職員として駐在した原梅三郎は《あるときアメリカの〃シカゴ・トリビューン〃の記者がレジストロに遊びにきたことがあったが、その記者がシカゴに帰っての発表は、「日本人はサンパウロ州南部カナネイア港に、海軍根拠地をつくる目的で、そのちかくに植民地を設けつつある、その植民地には予備軍人がいる」と、まことしやかに報道したことのあるのを知っているが、これはアメリカ人が事をかまえての、日伯離反を計ったものだ》(『ブラジルを語る』1962年、五二出版、118頁)と著した。最初の植民地だけにブラジル内はもちろん、米国などの国際的な批判の矢面にも立たされた。
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 アゴスチンニョはさらに42年に『Diretorizes』紙に掲載された次の一文を転載した。「サンパウロ州に住む枢軸国側移民による生産能力と購買力をどう考えるか?  いかに戦時とはいえ、政府によるこの非常処置(資産凍結や強制立ち退き)による損害は最小限にとどめることができるのか。彼らを工場、農園、耕地、農協などから追放することで、我が国民全体の社会的な均衡を崩すことにならないか。この極端な政策によって何千人もの外国人移民の生活はどう面倒を見る。収容所に集めて、国庫で負担するのか」(『BO』103頁)。
 米国ワシントンにいた駐米ブラジル大使カルロス・マルチンス・ペレイラ・エ・ソウザ(Carlos Martins Pereira e Sousa)は戦時中、米国が日系人を収容所に隔離した政策をブラジルでも実施するように政府に働きかけていた(フォーリャ紙08年4月20日付け)ことに対する反論のようだ。事実、トメ・アスーでは強制収容された。
 47年5月1日付けフォーリャ・ダ・マニャン紙には1946/7農年におけるサンパウロ州農産物生産額の6割を日本人農業者が占めていたとある。コーヒー20%、綿花35%、バタタ60%、トマト95%、葉野菜70%、茶100%、鶏卵90%、ラミー90%、薄荷90%という具合だ。そんな時代に日本人を農業から隔離し、強制収容することは現実的に不可能な政策だった。
 アゴスチンニョは「戦中戦後のブラジル官憲は、日本移民は東京の指令によってストライキをすると疑っていた」と指摘する。サンパウロ州農業の6割を生産する日本移民がストライキをしたら大変なことなっただろうが、そんな皆無だった。
 亜国ペロン大統領の誘いにも乗らなかった日本移民の尽力で戦後、紅茶産業は立ち直り、1948年時点でアルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイ、仏領ギアナ、イラン、モロッコ、トルコなどに輸出される主要農産物になっていった(『BO』98頁)。
 『香山六郎回想録』によれば、ドップスは戦時中、アリアンサ、バストスはじめ地方移住地からも邦人社会の指導者層を根こそぎ勾留した。ところがレジストロでは、運営主体の海興が清算されたのに、植民地幹部でサンパウロ市のドップスに送られた者はいなかった。まるで誰かが庇ったかようだ。これも戦争中の謎の一つといえる——。
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 原梅三郎は太平洋戦争が始まった1941年に、ブラジル移民と大陸政策を比較しようと考え、北支、満州、朝鮮を視察して歩いた。《第一に気のついたのは、日本が相手国を全然無視し、相手国人を馬鹿にしきっていることで、日本人同志はそれを得意としてるように見受けたが、私自身はとても不愉快に感じ、こういうことはけっして永続きするものではないと感知したのだった》(『ブラジルを語る』436頁)との違和感を抱いた。
 力行会の永田稠が満州の武装移民団を〃人類の移住史上かつてない暴挙〃と批判して「国賊」扱いされたのと同様、ブラジル移住関係者からすれば、満州のそれはかくも異なるものだった。(つづく、深沢正雪記者)