日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (93)=「日本負けた」と馬鹿にされ=桂植民地にも勝ち負け余波

ニッケイ新聞 2013年12月18日

植田徳良

植田徳良

 1945年6月6日、ブラジル政府はついに日本に宣戦布告した。同年5月にベルリンが陥落し、欧州戦線は終息。日本も沖縄戦をしている最中で、降伏は時間の問題と見られていた。つまり、連合国側について終戦交渉を外交的に有利な立場で行うためだろう。
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 1945年8月15日、植田(うえだ)徳良(とくよし)(81、高知)は、「いつものように学校で午後、ブラジル式の授業を受けていると、先生が『日本は負けた。今日はうちに帰っていい』と帰してくれた。ブラジル人の先生も日本人の子供にとても良くしてくれた。両親はよく野菜とかを先生に持って行っていた」という。
 戦争中は日本語教育に苦労していた。「夜ね、道端出会うブラジル人には『魚を釣りに行く』といって釣り竿をもって、実は坊さんの家にいって日本語を勉強した」と思い出し笑いする。
 9歳年上の兄は終戦直後に出聖し、同じ高知出身の下元健吉を頼ってピニェイロスのコチア産組の倉庫で働いた。父が「大学を出ないと成功できない。上の学校にいって、社会に出たほうが子供のためだ。学問しないといけない」と考え、47年に徳良も中学のために出聖した。
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 西館正和は、ブラジル遠征軍(FEB)に加わってイタリア戦線で戦った桂植民地の二世がいるという。最古の植民地だけに二世が兵役年齢に達していた。だからこそ海岸地帯強制立ち退きの際も、地元ブラジル人政治家がヴァルガスに「二世はブラジル人だから立ち退きから除外してくれ」と主張した内容が説得力を持ったのだろう。
 「1945年8月、ちょうど戦争が終わった直後ぐらいかな。なんかの用事でサンパウロ市からこっちに戻るとき、オニブス(バス)に乗って、ジュキアでバルサ(船)に乗り換える時、全員が降りたんだ。それまでバスの中でブラジル人から『ジャポン・ペルデウ』とか言われて馬鹿にされていた」と悔しそうに振り返る。
 「知らなかったんだけど、その時、たまたま同じオニブスに、出征していた隅田(すみだ)パウロが乗っていた」と懐かしそうに思い出す。彼は軍服を着ていて、バスから降りてきた時、僕らを見つけて「イタリア戦線から今帰ってきました」と敬礼したんですね。「僕らはああ、生きて帰ってきた。良かったなって」って単純に思った。
 「そしたら、それを見ていたブラジル人が驚いちゃって、バスに乗ってたお客さんが全員で『ヴィバ! ヴィバ!』って、いきなり祝福に変わった」と、その時の驚きを伝える。
 「あの時は、本当に気持ちよかったね」と繰り返す。「でもあの頃、僕は心の中では『本当は日本が勝ったはず』と思っていたけれども…」。実に複雑な心中だった。
 柳沢ジョアキンも「僕も1944年に6カ月間、軍隊に行った。ヨーロッパ戦線に行くはずだったが、その前にドイツが降伏したから行かなかった」という。「戦争が終わったあと、勝ち組の人が来て、『そのうち日本軍が上陸してくる』って言うんだ。僕は兵役も行ったし、『戦争はもう終わったよ。日本は負けた』と言ったが彼らは認めなかったな」。桂植民地でもそのような状態だった。
 勝ち負け抗争の余波はイグアッペにも迫っていた。西館は「桂植民地で〃勝ち負け〃がないとは言われない。イグアッペの店を探して、日の丸の旗作るって白と赤の布を買って来た家長もいたという話だ」という。
 「二世は戦争中にブラジル人からいじめられたから、『戦後は反対にやり返してやる』って言っているのもいた。僕はそれに反対したんだよね。もし日本が勝ったら、世界の人々の先になって歩かないといけないって。でも正直言って、世界の人の先に立って歩くって、日本人としてどうして良いか分からないって、本気で考えたよね。日本の艦隊がサントスに何日に入るとか、どっから来るかしないけど、紙が回って来てたんだ」。(つづく、深沢正雪記者)