日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (94)=終戦7年目に敗戦を公言=「この道を通ったら殺す」

ニッケイ新聞 2013年12月19日

1944年3月3日付け毎日新聞。隣り合わせに掲載された青柳育太郎と大武和三郎の死亡広告(『大武和三郎』38頁)

1944年3月3日付け毎日新聞。隣り合わせに掲載された青柳育太郎と大武和三郎の死亡広告(『大武和三郎』38頁)

金子慶子さん(左)は山田義一(左上)家の長女だった。(『イグアッペ植民地開拓50周年記念帳』193頁)

金子慶子さん(左)は山田義一(左上)家の長女だった。(『イグアッペ植民地開拓50周年記念帳』193頁)

 セッテ・バーラスにいた山根善信(よしのぶ)は「1946年後半、何かの用事でサンパウロに出た時、ドップスに捕まったことがある。タピライを通るバスで出て、ルス駅の近くに着いた。用事を済ませて、バス停で私と別の日本人が待っていたら、いきなり刑事に捕まって10日間もすぐ近くのドップスの監獄にぶち込まれた。小さなカデイアに20人ぐらい押し込まれて、重なって寝るようなところ。尋問されたとき、出るためには『日の丸を踏め!』と言われた。僕は負けたかどうかは言わないが、『戦争は終わった』とだけ繰り返し言ったら、結局は釈放してくれた」。
 さらに「臣道聯盟の人が来てセッテ・バーラスとかキロンボでも会を作ろうとしたが、まとまらなかった」と証言した。
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 キロンボ植民地にいた金子慶子もはっきり覚えている。「祖父も父も戦争中、日記を毎日書いていた。あるとき読もうと思って開いてみたら読めなかった。私は最初、ポルトガル語かと思っていたら、英語だった。日本人に意地悪をする警察がいて、日本語だと焼かれてしまったからです」。祖父らが札幌で米国人宣教師から習った英語は山奥でも役に立った。
 「日本行きの手紙をレジストロの郵便局に持って行っても、戦後すぐは、その場で裂かれてしまった。日本が負けたからね…」。反日感情は強いものだった。だから「終戦直後から父はアメリカの牧師に英語で手紙を書いて、そこで宛名を日本に変えてもらい、日本の友人や親類と連絡をとっていた。だから日本が負けたことはすぐに分かっていた」。最初から正しく状況を把握していた。
 「でも終戦7年目、そろそろ言ってもいいんじゃないかって、お爺ちゃんがどこかの家に伝道に行った時、『残念ながら日本は負けた』と言ったんです。その直ぐあと、3人の日本人がファッコンや棒を持ってうちに飛び込んできて『殺す!』って叫び、バンバン叩いたり、大暴れしていきました」。何が起きたかと子供だった慶子は驚いた。
 「父は山に行っていて、お爺ちゃんと私が家にいた。私は影で聞いていて、怖くて怖くて。なに言ったか知りませんが、結局はお爺ちゃんが収めました」。
 悲しいいがみ合いは黒い影を残した。「その人たちは市道の道端に書いていきました。『この道を通ったら殺す』ってね。市道っていっても、人一人が通れるだけの細い道。そこを通らないとブラジル学校に行けなかった。父さんから『通ったら危ない』と言われ、ブラジル学校に私だけ通えなかった。その間、父がポ語を教えてくれました」という。 
 10カ月後、「そろそろ行ってもいい」と父に言われ、8キロの山道を歩いて学校まで通った。それは1953年、戦後移住がようやく再開された年だった。
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 イグアッペ殖民地を創設した青柳郁太郎は、レジストロが市として独立したのと同じ年、1944年の2月16日午前10時すぎ急逝した。44年3月3日付け毎日新聞掲載の、彼の死亡広告の隣には、奇しくも盟友・大武和三郎の死亡広告が並んでいる。青柳が亡くなったちょうど一週間後、2月23日に大武和三郎は《狭心症の為急逝》していた。初期移民の多くが世話になった『葡和辞典』の編纂者で、在京ブラジル大使館に勤務して、水野龍、青柳らを手伝ってポ語書類を作成した。
 『葡和辞典』(50年、再版)の「再刊にあたって」で息子の大武信一は《1944年早春旧友青柳氏逝去を聞き、愕然として消沈し旬日を経ずして追うが如く心臓麻痺により急逝した。死去の前日偶然〃自分はあくまでブラジルに忠誠を誓う〃とその心境を漏らした》と書いている。移民事業を創始した盟友たちが、どれだけ張りつめた心境で生涯を送り、精神的にお互いを支え合って生きていたかが伺われる。(つづく、※新年から「戦後編」へ、深沢正雪記者