国際派人材とブラジル移住=大正デモクラシーの流れ

新年号

ニッケイ新聞 2014年1月1日

政治に翻弄された移住地

アリアンサ最初の入植者。右から北原地価造(初代現地理事)、はるみ夫人、ミサヨ(座光寺夫人)、座光寺與一(大工)、1924年撮影(1925年 南米ブラジル「ありあんさ」移住地の建設より)

アリアンサ最初の入植者。右から北原地価造(初代現地理事)、はるみ夫人、ミサヨ(座光寺夫人)、座光寺與一(大工)、1924年撮影(1925年 南米ブラジル「ありあんさ」移住地の建設より)

 移民事業は元々内務省の管轄であったが、実際に現地で責任を持たなくてはならないのは外務省であり、1926(大正15)年の若槻内閣で移民業務を担当していた外務省通商第三課長石射猪太郎らが中心となって、民間移住地支援法として永田ら海外協会が推し進めていた「移住組合法」の頭に「海外」を付けることで外務省主導の法律とし、年間180万の予算が付けられると永田ら海外協会に提案、これに内務省(守谷栄夫部長)も合意し、1928年3月に海外移住組合法が成立する。

移住法そのものは産業組合法に準ずる民間に開かれた法律であったはずだが、その翌月、若槻内閣総辞職によって政友会・田中義一内閣が成立すると、突然勅令によって再び内務省主導の法律に転換する。その結果、政府の認める移住組合以外への支援は拒否となった。つまり、最も資金を必要としていた力行会の永田稠会長らが開設したアリアンサへの支援は拒否される。

田中義一内閣はその法律を使って、ブラジルに一県一村移住地を建設せよとの指令を出し、内務省に実施させるが、外務省側の現地総領事からは反対意見が挙げられた。そこで内務省の中でも植民地問題の専門家、国際派の梅谷光貞が実行者として選ばれ、現地の輪湖俊午郎を右腕として土地選定を進めた。

1928年頃のアリアンサ野球チーム。左端が主将の弓場勇。後列左から5人目の小柄な眼鏡をかけた青年が相馬文雄(『共生の大地』153頁)

1928年頃のアリアンサ野球チーム。左端が主将の弓場勇。後列左から5人目の小柄な眼鏡をかけた青年が相馬文雄(『共生の大地』153頁)

 このアリアンサ移住地建設思想の根底には、国際的民族主義的なものがあると木村さんは睨んでいる。「永田稠(力行会第2代会長)、輪湖俊午郎(移住地立案者の一人)、今井五介(実業家、永田の支援者)らには若い時期に、北米で苦い生活経験をしたという共通点がある。そこで培われた国際的な民族主義という視点が、内務省が強引に推し進めようとした国粋政策とぶつかった。アリアンサが日本の政治の流れにゆさぶられたのは、そのような構図があった」と説明する。

しかし、1934年にブラジルで二分制限法が施行されて、日本移民の入国が制限されるに至り、内務省から移民事業を引き継いだ拓務省は、ブラジルでできなかった「一県一村(移住地造成)運動」を満州に持ち込んだ。国際協調的な移住だった当地では不可能だったような、強引な移住方法を満蒙開拓団では実行したようだ。

このようにブラジル移民と満州移民は、民族主義的な部分では通底していても、あくまでも国際協調的な方向性を旨とした点で、まったく異なった移住形態だったといえそうだ。

でも、この点が戦後に当地書かれてきた移民史の中では混同され、アリアンサ建設自体の歴史が削除されてきたきらいがある。《輪湖俊午郎は一九六五年に七五歳で没する。彼を知る人々によると、ブラジル移民最大の事業を取り仕切りながら、決して自らを押し出すことのなかった人物で「本当の移民史を書き残すことができなかった」が最後の言葉だったという》(同チラシ)。

しかし、木村快さんの著書によって、90年間の長い時間を経て、ようやく〃本当の移民史〃の一端が陽の目を浴びることになったといえそうだ。