お遍路の本をポ語で刊行=『No Caminho de Shikoku』=知られざる日本文化を紹介=二世の金子パウロさん=バイーアから四国、和歌山へ

新年号

ニッケイ新聞 2014年1月1日

 「ブラジル人にとっては未知の情報。誰も知らなかった日本文化だと思う」。54日間をかけて四国八十八カ所、1200キロを歩いて回った記録をポ語でまとめた『Mais de 88 razoes para peregrinar No Caminho de Shikoku』(四国の道で、264頁、2013年)を上梓した元銀行員の金子パウロさん(64、二世)は、そう言って穏やかに笑った。旅の目的は個人的な満足だけではない。この本は、「ポ語情報が極端に少ない」という日本の「OHENRO」を紹介し、当地の一般社会に〃空海の道〃の魅力を知ってもらうという意欲的な取り組みだ。

「ガイドブックのつもりじゃない。あくまで参考にしてもらおうと思って」。控えめで柔らかな物腰で語り始めた。弘法大師が写った写真の表紙を開くと、ほぼ全頁で、たくさんの寺院や自然の風景が写ったカラー写真が目に飛び込んでくる。

2008年10月7日から11月28日までの旅の間に毎日つけていた日記をもとに、一日一日の記録を章立てした。出会った人々、食べたもの、宿泊したところ、四国の風景の中で感じたこと――。初心者向けで、自らの経験を記録した、生きた情報が満載だ。

10月24日にサンパウロ市の移民史料館で行われた本の出版記念会には、バネスパ銀行時代の同僚、友人、巡礼愛好者団体など250人が駆けつけた。本を片手にサインを求める長蛇の列は会場に収まりきらず、下の階にも伸びる反響ぶりを見せた。

計600部の刊行部数のうち400部を5団体(憩の園、こどものその、希望の家、やすらぎホーム、伯日統合文化社会協会)に寄付した。「父がいつもコロニアの団体を支援していたから。自分も何かしたいと思った」のが理由だ。残り200部のうち60部は印刷費を助成した宮坂国人財団、残りは協力者や親類80人に、11冊は四国で世話になった宿泊所に送った。

世界のどの巡礼にも似ていない独特さ

 情報提供で協力したのが、友人を通じて知り合ったジェラルド・ベルナルディノさんと、野口アリセさんの2人。出版会にも姿を見せた、これまで3回お遍路を歩いた非日系のジェラルドさん(69)は、お遍路を「自分へのコミットメント(誓約)。人とすごく密な関係を築けるもの」と独自の定義をした。

「僕たち西洋人は、日本人が冷たいとか、そういう偏見を持っている。でも実際行ってみていろいろな人と知り合い、そうじゃないとわかった」

もともと日本映画が好きで日本に興味を持っていたが、退職してから本格的な〃巡礼の道〃へ出発した。二世女性と結婚し、義理の両親が広島、島根の出身だったことから広島県人会にも50年出入りしている、コロニアに近い非日系人だ。

「お遍路はほかのどの巡礼の道とも似ていない。すごく独特で、儀式の色合いが強い。祖先を敬う精神もすばらしい。それが、ブラジル人を惹きつけるんじゃないかな」と会場を見渡して言った。

バイーア文化からサンバ

 「僕はジャポネース・バイアーノなんだ」。日本的なものとのかかわりを金子さんに尋ねると、そう笑いながら答える。少年時代からバイーアの文化に魅了され、サンバチームのトンマイオールに所属してカーニバルにも出場した。

熊本出身で1929年に来伯した父と、北海道出身の母のもと、サンパウロ市に生まれた。ジャルジン・サウーデ区にあった日本語学校「双葉学園」に7歳まで通ったが、就学後は同級生からポ語のソタッキをからかわれ、いじめにも遭った。

そこから、いわゆる日本的なものには反発に似た感情を覚え、黒人の友人とグループを組んでサンバを踊り、サッカーに夢中になった。「ガイジン、クロちゃんの友達のほうが多かったね」と笑う。

FMUの経営学部を卒業後、在学中から働いていたバネスパ銀行に就職し、日本語を再び学ぶことはなかった。退職するまでの銀行員生活では健康食品を買うためにリベルダーデに通ったり、カラオケのクラブに出入りするという程度のもの。自分の起源である日本との距離を再び縮めたきっかけはお遍路だった。

欧州、ブラジルの巡礼路を踏破

 もともと大の旅行好き。スポーツも好きで、サンシルベストレ・マラソンにも2回出場した。退職後は時間ができ、ウォーキングを始めていた。〃巡礼の道〃に関心が向くのは自然な流れだった。

2007年、スペインの「カミーニョ・ダ・コンポステーラ」を歩いたのが始まりだ。その後カミーニョ・ダス・ミソンエス(南大河州)、カミーニョ・ダ・ルス(ミナス州)、カミーニョ・ド・ソル(サンパウロ州)と次々に踏破。平均250~300キロの道を歩き、足にマメができたこともあるが〃役得〃と笑い飛ばす。

両親の祖国である日本の道に関心が向くのは時間の問題だった。情報収集を始めたが「インターネットではポ語での情報がほとんどなく、英語が少しあっただけ」。そこで友人を通じて前述の2人の協力を得、情報収集をした。3カ月の基礎日本語コースに通って準備を整えた後、念願の日本に到着したのは08年10月だった。

たどりついたOHENRO

 本を書くという構想は、行く前から既にあった。日本に到着後すぐ、販売されたばかりのセミプロ用のニコンのカメラ、記録用のノート、文章を書く参考にと英文学の本を購入した。

初めての日本で感じていた不安が消えるのに、時間はかからなかった。広がる田園地帯、美しい花、お寺、宿泊所、宗教的儀式、システマティックさ、手の込んだ料理――西洋の巡礼の道とは何もかもが違うものがそこにあった。

何よりも新鮮だったのは、助けの手を差し伸べてくれる人が次々と現れたことだ。「飴玉や果物、ときどきお金をくれる人もいたよ」と思い出す。「差し出されるものは全て受け取らないといけないが、車だけは断ることができる」という決まりにも驚いた。「接待、ドアソンは、行動で示す愛」と感動した。

お遍路さんが着る白装束の上っ張りを着た、友人のマルレーニ・メンドンサさんとの2人旅。毎日平均20キロから25キロ。疲れて10キロで終わった日もあった。日本語のガイドを手に、寺に到着してはガイドにある漢字を見比べて確認することを繰り返しながら、歩を進めた。

自然の多さ、美しさに感動したことも心に刻まれた。「カメラがよかったからかもしれないけど、素人でもとてもきれいに撮れた。それだけ景色が美しかったということ」と目を細めた。

道中は韓国、オーストラリア、フランスなど、日本人以外の外国人ともたくさん出会った。途中で知り合った日本人に、思いがけず香川県にうどんを食べに連れて行ってもらったことも、忘れられない思い出だ。

「自然に生かされている自分」という目覚め

 金子さんはスピリチュアリズムを信仰しているが、特定の宗教はない。「いつも神様と会話ができる」と信じている。

「自分を見つめ直す機会になった」というお遍路で学んだことを一言で言うと、「自然をあるがままに受け止めることの大切さ」だった。

「お遍路に行く前の自分はエゴイストで、何かを恨みに思うことも多かったけど、誰とも争い事を起こさない、より良く世界と関係を持つことが何よりも大切だと気づいた」と記者をまっすぐ見つめた。

「たとえば、雨が降ったとき」と例を挙げる。「雨に降られた、じゃなくて、雨が降っているところに自分が入っているだけ。自然が自分たちを取り囲んでいるんじゃなくて、自分たちが自然の中に入っている。自然と人間は、互いに歩み寄らないといけない」。そういったことを、田園風景が広がる四国の地で、自然を目の前にすることで体にしみ込むように理解したという。

すべてが日常と違う環境の連続で、それを乗り越えながら歩き続けなければならない。それによって自分の限界を知る。「たくさんの人と知り合ったこと、ブラジルとは違う景色の中を歩いたことは、死ぬまで忘れられない経験」と感慨深げに語る。

次は和歌山の熊野三山か

 そんな貴重な54日間の記録を文字にすることは容易ではなく、5年経った今年、ようやく刊行にこぎつけた。今後は本をスペイン語や英語にも翻訳し、ヨーロッパや米国にもお遍路の紹介をすることが目標だ。「その間、しばらく旅行はお休みですか?」との質問には、「和歌山にも、余り知られていない道があると聞くね」とにやり。

役行者(えんのぎょうじゃ)が日本独自の山岳修行・修験道の教えを開いたといわれる、「吉野・大峯」と「熊野三山」の二大霊場を結ぶ「大峯奥駈道」のことかもしれない。であれば、更なる日本文化の深奥を目指しているようだ。