日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (95)=勝ち負け最中にRBBC創立=コロニア最古の連合青年会

ニッケイ新聞 2014年1月3日

レジストロベースボールクラブの本部(同50周年記念誌の表紙)

レジストロベースボールクラブの本部(同50周年記念誌の表紙)

〃お茶の都〃として名を馳せた水郷レジストロだが、戦後にコロニアで編纂された移民史からは、最初の永住志向集団地であるイグアッペ植民地やその創立者・青柳育太郎という存在はぼかされていった。しかし、地元では戦争中に海興が清算された後も、戦前からの命脈をしっかりと保ち、戦後初の日系団体を正式発足させ、80周年では戦前派と戦後移民が力を合わせて日伯文化協会を復活させた。それをテコにリベイラ河沿岸日系団体連合会の発足、地元中学校生徒に核兵器廃絶を学習してもらう「平和灯ろう流し」も始めた。2013年には同地方百周年式典を開催し、今後続々と続くであろう地方百年祭に先鞭をつけた。その背景には地元市民との〃共存共栄〃という明治以来の精神がしっかりと息づいていた。

レジストロベースボールクラブ(RBBC)は、勝ち負け抗争真っ最中の1947年に創立している。「日本人会」という言葉が使えない時代に、「ベースボールクラブ」という独自名称を考案した。1924年にレジストロ選抜野球チームは、ブラジル初の対抗試合を行い、当時、無敵を誇ったミカド野球団と対決して勝った栄光の歴史を持つ。

初代会長にはシゼナンド・デ・カルヴァーリョが就任した。戦前創立のコチア産業組合や南銀はブラジル人をトップに就けて戦中戦後を凌いだが、同地は新規に正式発足という点で、一味異なる。

しかもカルヴァーリョはその直後、初めての選挙で市長(1948~52年)に選ばれた。枢軸国人集団地であるにも関わらず、なぜか戦中の44年11月に市制化してからずっと官選市長だった。当然、日系人もこの選挙に協力したに違いない。そんな地元要人の協力があったから、勝ち負け抗争真っただ中でも正式発足できた。

ちなみにサンパウロの文協創立は1955年、それ以前といえば二世中心のピラチニンガ文協が50年、アルモニア学生寮を運営するためのサンパウロ学生会も49年創立だ。47年創立というのは戦後最古といえる。救済会の前身「サンパウロ市カトリック日本人救済会」は42年に開始したが、大司教の庇護を受けた特別な団体だった。

《現在の連合青年会は一九四七年の創立で、ブラジル名をRBBCと呼び、唯一の合法団体である。会員三百二十人~》(『50周年記念写真帳』22頁)とある。つまりRBBCはブラジル名であり、「連合青年会」が一般名称だった。

この連合青年会は1920年に発足しており、コロニア最古だ。青年会最古参の一つ、スザノ市の福博村25青年会の発足が1933年6月だが、それより14年も古い。コロニア最古の連合青年会が、栄光の野球を軸に、地元ブラジル人政治家との良好な関係を基礎にして、戦後いち早く復活したわけだ。

《連合青年会が特別委員を挙げて全力を尽くして政府との交渉はもちろん、地元の人との折衝、土地の選定、ロッサ、山焼き、抜根等をやり、政府の援助の下に約四万平米の総合運動場を立派に仕上げ、一九五九年、カンポ開きに第十一回聖南野球大会を盛大に催す。その広大な土地もツピー組合長、清水宗次郎氏等の協力に依りて寄贈していただく、建設委員は隅田弘、宮沢平次、大室克己、原村左幸(さこう)、松村昌和、深町積(せき)の諸氏である》(『50周年記念帳』22頁)とある。

レジストロ日伯文化協会も一時期できた。《1957年に山崎良作会長を初代会長として発足し1964年にレジストロベースボールクラブと合併した》(『レジストロの八十年』、1996年、同日伯文化協会)とある。法人格や不動産を持たなかった同文協はいったん消滅してしまった。(つづく、深沢正雪記者)